イエスの処女降誕

ルカ1:26-38、マタイ1:16-25

22.12.4.

聖書は、イエス・キリストが処女マリヤから生まれたと証言しています。これは「処女降誕」と言われ、私たちの救いにとって、非常に重要な出来事でした。この処女降誕は、どのようにして起こったのでしょうか。処女降誕には、どのような意味があるのでしょうか。

1.処女降誕についての記述

① マリヤへの告知(ルカ1:26-34)

ある日マリヤの前に御使いガブリエルが現れて、マリヤが「男の子」(31)を産むと伝えました。そして、その子は「すぐれた者となり、いと高き方の子」(32)と呼ばれ、「ダビデの王位」(32)が与えられ、「その国は終わることがありません」(33)と言われました。「いと高き方の子」とは「神の子」という意味です。「ダビデの王位」が与えられるとは、「キリスト」(メシヤ;油注がれた者;王)のことです。旧約聖書には、キリストがダビデの子孫から生まれると預言されていました。つまり、マリヤから生まれる「男の子」が、「神の御子キリスト(王)」であり、彼が「永遠の王国」すなわち「神の国」を築き上げるというのです。

② ヨセフへの告知(マタイ1:16-19)

18節には「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とあります。マリヤが処女であるのに妊娠してしまったため、ヨセフはかなり悩んだことでしょう。当時、ユダヤでは、結婚していないのに妊娠することは、不貞の罪を犯したとみなされ、最悪の場合は死刑にもなることでした(申22:20-24)。そこで、ヨセフは、マリヤを「内密に去らせようと決めた」のです(19)。婚約関係がなければ、不貞の罪に問われることはなく、マリヤの命は助けられたからです。

2.聖霊による妊娠

マリヤは御使いガブリエルに尋ねました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34) この「どうして」とは、「なぜ(Why)」ではなく「どのように(How)」という意味です。マリヤは、「どのように(How)それが起こるのでしょう」と尋ねたのです。マリヤは、ガブリエルが語った神からのメッセージを信仰をもって受け止め、「どのようにして起こるのでしょう」と期待したのです。マリヤの質問に対して、ガブリエルは、何も具体的な方法は説明しませんでした。ガブリエルの答えは、ただ「聖霊」が臨むことによって、「いと高き方の力」すなわち「神の力」が与えられるということとだけでした(35)。Cf.使1:8。すなわち、マリヤの妊娠は、人間的方法や力によるのでなく、「聖霊」が臨み、「神の力」が与えられたことによるということでした。

マリヤのことで心を痛め、どうしたら良いかと色々「思い巡らしていた」(1:20)ヨセフに

「主の使いが夢に現れて」語りかけました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(20) ここでも、マリヤの妊娠が聖霊によるものであることが語られています。

最後に、御使いガブリエルは、マリヤに言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)。聖霊が臨み、神の力が働かれることによって、不可能は可能になるのです。Cf.ルカ18:27

3.処女降誕の意義

① イエスが旧約聖書に預言されていたキリストであることを示す

マタイは、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」(1:22)と語っています。そして、その「預言者」とはイザヤ7:14でした(1:23)。処女から生まれた者は、唯一イエスだけです。ですから、処女降誕は、イエスが旧約聖書に預言されていたキリストであるということを証明するものとなりました。

② イエスが罪のないお方であることを示す

マタ1章には、「イエス・キリストの系図」が記されています。16節のイエスの父ヨセフまでの書き方は「父○○に息子○○が生まれ」となっています。ここに「マリヤの夫ヨセフが生まれた」とあり、マリヤとヨセフの関係が言及されています。しかし、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあり、イエスが父ヨセフと血の繋がりがないことが示されています。このことは、イエスがアダムの罪を引き継ぐことなく、罪のない者であったということを示しています。アダムが罪を犯して以来、人類はアダムの罪を引き継いで生まれ(ロマ5:12,17,19)、全ての人が生まれながらに罪人となってしまいました(ロマ3:10)。しかし、イエスは、父を通すことなく、処女から生まれることによって、罪の性質を引き継ぐことなく、罪のない者となることが出来たのです。

③ キリストが人となった神であることを示す

イエスは、神として世界の始まる前から存在していました(ヨハ1:1-3,14コロ1:15-17)。しかし、私たちを罪と死(滅び)から救うため、人間となって来て下さいました(ピリ2:6-8)。Cf.ロマ8:3ガラ4:4-5。(永遠なる神が有限なる人間となって下さった : へりくだり。) 世界の始まる前から神として存在していたイエスは、私たち人間を救うため、聖霊によって処女マリヤの胎に宿り、人間として生まれて来て下さったのです。このように、処女降誕は、神が人となって来て下さったことを示すものなのです。

 

罪がなく聖い存在であるということと、死ぬべき肉体を持つ人間であるという、相反する二つのことを同時に実現させたのが処女降誕なのです。ですから、処女降誕は、私たちの救いと信仰の土台であると言えます。イエスは、聖霊によって処女マリヤからお生まれになったゆえに、私たちのために完全な贖いを成し遂げられたのです。

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