自分の十字架を負いイエスについて行く
マタイ16:24
24.7.21.
「自分の十字架を負いイエスについて行く」とは、どういうことか。
1.主は弟子を求めている
イエスは、「弟子たちに」対して、この言葉を語られた。つまり、これは、「弟子たちに」に求められていることであるということ。「弟子」とは、新約聖書の原語であるギリシャ語で「マセテース」という。「マセテース」とは「学ぶ者」(教えを受ける者)という意味。知識や技術を習得するために、特定の師に付いて学ぶ者のこと。そのために、弟子は、修行期間中は師と共に生活し、師に仕え、師から学んだ。弟子とは、師と個人的な関わりを持ち、師から教えを受ける者。
イエスは12人の者たちを弟子に任命した。それは彼らをご自分の身近に置くためだった。ルカ3:14。ヨハ12:26。イエスが求めておられるのは、単なる信者ではなく、「弟子」。「イエスを信じます」と言うだけではなく、常にイエスと共にいて、イエスから学ぶ人。
イエスは、弟子たちを召す際に、「わたしについて来なさい」(マタ4:19)と呼び掛けた。これは「弟子」となるようにという招きの言葉。ペテロとアンデレは、ガリラヤ湖の岸辺で網を打っていた。彼らは、イエスの招きを受けると、「すぐに網を捨てて従った」(マタ4:20)。また、イエスは、舟の中で網を繕っていたヤコブとヨハネにも呼び掛けた。すると、「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタ4:22) イエスは、私たちにも「わたしについて来なさい」と呼び掛けておられる。
2.弟子が負うべき十字架
イエスの弟子として、イエスについて行きたいと願う者は、「自分を捨て、自分の十字架を負」わなければならない。イエスについて行く弟子たちが負うべき十字架とはどのような十字架か。
① 自我に死ぬこと
十字架は、今日ではアクセサリーとなっているが、本来は死刑の道具だった。だから、十字架は「死」を意味するもの。「自分の十字架」を負うということは、「自我に死ぬ」ということ。「自我に死ぬ」とは、自分の思い、考え、気持ち、願い、計画、夢を手放すこと。イエスについて行こう、従おう、仕えていこうとする時、自分の考え方やライフスタイルを変えることが求められることがある。今までやって来たことを止めたり、今までやったことのないことをすることがある。自分の思い、考え、気持ち、願い、計画、夢を握りしめたままでは、イエスについて行くことも、イエスに従うことも、イエスに仕えることは出来ない。自分の思い、考え、気持ち、願い、計画、夢を手放すことが必要。それが「自我に死ぬ」ということ、「自分の十字架」を負うということ。Cf.Ⅱコリ5:14-15。ガラ2:20。
② 主のために苦しむこと
この世は、神を認めない、神を信じない、神無しの社会。そのような社会で、神の御言葉に従い、主に従い、主に仕えて生きようとすると、この世の価値観、考え方、生き方との摩擦や衝突を生じることもある。そのため、この世の人々から、変に思われたり、悪く言われたり、仲間外れにされたり、いじめに合うこともあるかもしれない。信仰のゆえに、この世の人々から憎まれることがある。ヨハ15:19。Ⅱテモ3:12。ピリ1:29。この「キリストのための苦しみ」が、主の弟子たちが負うべき十字架と言える。
③ 主のために働くこと
「主のための働き」も弟子たちが負うべき十字架と言えるだろう。すなわち、自分がどうしてもしなければならない務め。それは、パウロにとっては、福音を宣べ伝えるということだった(Ⅰコリ9:16)。私たち一人一人にも、主から課せられた「負うべき務め」がある。クレネ人シモンは、ただそこを通り過ぎ、傍観しているつもりだけだったのだろう。しかし、シモンは、無理やり十字架を背負わされた(マコ15:21)。同じように、私たちにも全く思いかけず、主の働きの一部を負わされることがある。何かの働きや奉仕に引き込まれてしまうこともある。それは、自分にとって不名誉なもの、恥、嫌なことかもしれない。しかし、逃げたり、投げ出したりしないで、その十字架を負うのです。主の弟子となるためには、何かの犠牲が要求される。それが十字架となる。
まとめ&結論
イエスが求めておられるのは、単なる信者ではなく、「弟子」。イエスは、私たちにも「わたしについて来なさい」と呼び掛けておられる。イエスについて行きたいと願う者は「自分を捨て、自分の十字架を負」わなければならない。
① 自我に死ぬこと
自分の思い、考え、気持ち、願い、計画、夢を十字架にかけて死んで、イエスに従う。
② 主のために苦しむこと
主に従い、主に仕えて生きようとすると、世の人々から憎まれることがある。
③ 主のために働くこと
主のために何かの働きや奉仕を負わされることもある。
イエスのために自分に死に、イエスのために苦しみ、イエスのために働くなら、イエスは、その犠牲に対する報いを与えて下さる。マタ16:25。マタ16:27。
ルカ23:26には、クレネ人シモンについて、「この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた」とある。この十字架を負ってイエスについて行く姿こそが、イエスに従う弟子の姿。私たちも自分の十字架を負って、イエスの後について行こう。ルカ9:23。
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