罪深い女の礼拝

ルカ7:36-50

22.1.16.

「罪深い女」の話を通して、「霊とまことによる礼拝」について学びましょう。

1.礼拝は神の愛に対する応答である

霊とまことによる礼拝」とは、「心からの本物の礼拝」です。当時、ユダヤ人たちは、エルサレムにある立派な神殿で、律法に従って、動物のいけにえをささげて、礼拝を行っていました。彼らは、自分たちが正しく礼拝をささげていると自負し、満足していました。しかし、イエスは、「形だけの偽物の礼拝」ではなく、「心からの本物の礼拝」すなわち「霊とまことによる礼拝」をささげるようにと言われたのです。

では、「心からの本物の礼拝」とはどのような礼拝なのでしょう。私たちは、「どのように礼拝するか」という礼拝のスタイルを考えてしまいます。しかし、は、私たちがどのようなスタイル礼拝するかには関心がありません。が関心をもっておられることは、礼拝スタイルではなく、私たちの心の姿勢です。私たちに問われていることは、どのようなスタイルで礼拝するかではなく、どのような心で礼拝するかということなのです。が求めておられる心とは、「神を愛する心」です。私たちが心から神を愛しているなら、内側から自然と神への礼拝が湧き出て来るのです。その時、もはや義務としてではなく、心から喜びに満ちて礼拝するようになるのです。しかし、もし神に対する愛がなければ、礼拝はただの義務や束縛でしかありません。

しかし、初めから私たちの内に神への愛があった訳ではありません。まずが、私たちに御子キリストをささげて下さったことによって、私たちに対するご自身の愛を示して下さったのです(Ⅰヨハ4:10ロマ5:6-8)。私たちが礼拝するのは、神が私たちを愛して下さったからなのです。ですから、礼拝は、「神の愛に対する応答」と言うことが出来ます。音楽に感動して礼拝するのではなく、神の愛に感動して礼拝するのです。

2.罪深い女は主の前にひれ伏し礼拝した

ある時、「あるパリサイ人」がイエスを食事に招きました(36)。すると「ひとりの罪深い女」が、パリサイ人の家に入って来ました(37)。「罪深い女」とは「不道徳な女」という意味で、「売春婦」や「遊女」のことです。彼女は、ユダヤ人から、罪深い汚れた女と言われ、嫌われ、避けられていました。彼女は「イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知り」(37)、人々から蔑まれ、嫌われ、避けられたとしても、イエスに会いたいと願ったのです。

すると彼女は「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(38)のです。当時、ユダヤ人たちは左肘をついて横たわって、両足を右側に伸ばすような恰好で食事をしていました。この女は、食卓に着いて横になっていたイエスの足元に立ったのです。

彼女の「涙」は、「砕かれた、悔いた心」の現れであり、「神へのいけにえ」でした(詩51:17)。そして、「涙」で濡れたイエスの「足」を自分の「髪の毛でぬぐい」始めました。当時、女性のかぶり物は、女性の栄光を表すものであり、人の前でかぶり物を取ることは、髪の毛がないことと同じほど恥となることでした。Cf.Ⅰコリ11:5-6,15。彼女は、自分の栄光を捨て、自分の恥をさらけ出して、イエスの足元に跪いたのです。また、この女がイエスの「御足に口づけ」したとありますが、この時、彼女は、イエスの足元にひれ伏す姿勢になりました。彼女がとった「ひれ伏す」という姿勢は、礼拝の姿勢でした。ギリシヤ語で「礼拝」は「プロスクネオ」といい「ひれ伏して礼拝する」ということです。詩2:12には「御子に口づけせよ」と書いてあります。これは「御子」足に口づけして、「御子」を礼拝することです。このように、この「罪深い女」がしたことは、イエスに対する礼拝だったのです。

3.多く赦された者は多く愛するようになる

なぜ、この「罪深い女」は、イエスに対してこのようなことをしたのでしょうか。そのことを説明するために、イエスは一つの例え話をしました(41-42)。イエスはシモンに、多くの借金を免除された者と、少しの借金を免除された者では、「どちらがよけいに金貸しを愛するようになる」かと問いかけました。その問い掛けに足して、シモンは「よけいに赦してもらったほうだ」(43)と答えました。この「罪深い女」がイエスに対してしたことは、イエスに対する愛の現れだったのです。

さらに、イエスは、この「罪深い女」がしたことと、パリサイ人シモンがしたことを比べて説明しました(44-46)。パリサイ人シモンは、イエスを食事に招きはしましたが、

イエスを客として歓迎する行為は一切しませんでした。それは、イエスを心から愛していなかったからです。パリサイ人シモンは、律法を忠実に守り、罪のない正しい人間だと思っていました。彼には、イエスに罪を赦していただいた経験も、イエスに対する愛もありませんでした。だから、イエスに対して何もしなかったのです。

一方、この女は、律法を破って、売春の罪を犯し、汚れた者となっていました。彼女は、自分の罪深さや汚れを十分認識していましたが、この時以前に、すでに、イエスから罪の赦しを受けていたのでしょう。彼女はイエスに多くの罪を赦していただいたので、イエスへの愛も大きかったのです(47)。イエスは言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(47)イエスに対する愛は、どれだけ赦しを受けているかによるのです。自分の罪が赦されていることを知っている人は、心からを愛して礼拝するのです。

 

の愛に感動し、の愛に満たされ、の愛に応答して、主を愛する心礼拝することが大切です。礼拝のスタイルを求めるのではなく、を求め、の前に進み行きましょう。どれだれが赦して下さったかを思い起こし、心からを愛し、を礼拝しましょう。

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