神を恐れよ(2)

申命10:12-13

22.11.13.

聖書の中で、繰り返し命じられていることの一つは「神を恐れよ」です。「恐れる」という言葉には、「怖がる」(fear)という意味があります。しかし、「神を恐れる」ということは、「神を怖がる」ことではありません。「神を恐れる」ということは、「神に対して畏敬の念を抱く」ということです。では、「神を恐れる」ということは、具体的にどのようなことなのでしょう。

1.創造主なる神にのみ仕える

ヨシュアは、イスラエルの民に「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」(ヨシ24:14)と命じました。それは、かつてモーセがイスラエルの民に命じたことでした(申6:13-14)。私たちが神に仕えなければならないのは、神が私たちの創造主だからです(詩100:1-3)。私たちは、神によって造られたのですから、私たちは神のものです。つまり、私たちが主なのでなく、神が私たちの主なのです。ですから、神が私たちの主であることを覚え、神に仕えるのです。

ヨシュアは「あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」と言い、モーセは「ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない」と言っています。「ほかの神々」、「国々の民の神」とは、偶像のことです。それらは、人間が勝手に考え出し、作り出した偽りの神々です。偶像とは、異教の神々だけではなく、神以上に愛しているもの、大切にしているものです。例えば、お金、仕事、財産、愛する人、人生の夢や目標、趣味ややりたい事などです。いつの間にか、これらが自分の主となってしまっていないでしょうか。神に従い、仕えるのではなく、世のものに従い、仕えてしまってはいないでしょうか。コロ3:5には、「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」とあります。「むさぼり」とは、「飽きることなく欲しがること。際限なくある行為を続けること」です。

2.聖なる神を覚え悪から離れる

「主を恐れることは知恵の初め、聖ないる方を知ることは悟りである。」(箴9:10) ここで、「主を恐れること」と「聖なる方を知ること」は同じことを言っています。「聖さ」は神のご性質の一つで、神は全く悪も罪も汚れもない、完全に聖いお方です。神は、どんなに小さな罪や悪とも妥協することなく、それらを必ず裁きます(伝12:14)。神を聖なる方として覚えるということは、神がどんな罪や悪をも受け入れることなく、それらを必ず裁く方であるということを覚えることです。そして、神が聖なる方で、どんな罪や悪をも憎み、それらを必ず裁かれるという理解は、私たちを悪から離れさせ、私たちに聖い歩みをさせます(箴3:78:1316:6)。

クリスチャンの中には、神への恐れがない者たちもいます。彼らは、神の愛と恵み、憐れみと赦しだけを強調し、神の聖さにはあまり目を向けません。聖なる神に対する恐れが欠けているため、神に対して馴れ馴れしくなっています。その態度は、日々の信仰生活の中や、礼拝の中に表れます。

・罪を犯すことに何の良心の痛みも感じず、悔い改めも口先だけの不徹底なものになる。

・神を第一としたり、神に忠実に仕えることに真面目に取り組まない。いい加減、適当。

神は、神に対して恐怖心を持つこと、神を怖がることを望んでおられません。主は、私たちが聖なる者となることを望んでおられます(Ⅰペテ1:15-16Ⅰテサ4:3-6)。

3.理解できなくても信仰によって神に従う

主は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創22:2) と語られました。主は、アブラハムに、最愛の一人息子イサクを殺し、焼き尽くせと命じられたのです。主の言葉は、信じられない、受け入れられないようなことでした。しかし、「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、…息子イサクとをいっしょに連れて…神がお告げになった場所へ出かけて行った」(創22:3)のです。アブラハムは、何の疑いも、躊躇もなく、直ぐに主の御声に100%従いました。そして、「神がお告げになった場所」に着くと、「祭壇」(創22:9)を築き、「たきぎを並べ」、「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置」(創22:9)きました。そして、「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろう」(創22:10)としました。アブラハムが刀を振り上げた瞬間、「御使い」がアブラハムを止めさせて言いました。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創22:10) アブラハムは、初めから全てを理解していたのではありません。ただ神が必ずイサクを取り戻せさて下さると信じ、神に従ったのです。それは、アブラハムが神を恐れていたからです。神を恐れるということは、たとえ自分が理解出来ないことであっても、信仰によって、神に従うということです。

 

アブラハムは神を恐れ、神の言葉に従ったので、祝福が与えられました(創22:16-18)。神を恐れることによって、多くの祝福を受け取ることが出来ます。

・人生の知恵、生きるための知恵が与えらる(箴1:7)。

・あらゆる問題や困難からの救いが与えられる(箴19:23Ⅱ列17:39)。

・乏しいことがないように、必要が備えられる(詩34:9箴22:4)。

・肉体の癒し、心の癒し、人間関係の癒しと回復が与えられる(マラ4:2)。

他にも、多くの恵みが与えられることが約束されています(箴10:2714:27)。イザ33:6には「主を恐れることが、その財宝である」と言われています。「ヘブル人の助産婦たち」は「神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせ」ました(出1:21)。

偶像となるものを捨て、創造主なる神のみに仕えましょう。神が聖なる方であることを覚え、悪から離れましょう。たとえ理解出来ないことであっても、信仰によって神に従いましょう。伝12:13

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