神を恐れよ
伝道者12:13-14

22.11.6.
聖書の中で、繰り返し命じられていることの一つは「神を恐れよ」です。「神を恐れる」とは、どういうことなのでしょう。
1.ソロモン王の結論
伝道者の書の著者は、伝統的にソロモンであると言われています(1:1、12)。ソロモンは、イスラエルが最も繁栄した時代の王で、自分の欲望を満たすため、この世のあらゆる楽しみを試み、経験しました。しかし、結果は、空しいものでした(1:2-3)。伝道者の書で語られていることは、どんなに多くの富があり、あらゆる快楽を経験しても、神から離れた人生は空しく、真の喜びも満足もないということです。そこで、伝道者の書におけるソロモンの結論が12:13で、「神を恐れよ」という命令です。神は、私たちが神を恐れる者となることを求めておられます(申10:12-13)。
2.正しく神を敬い畏れる
聖書で「恐れる」と訳されているヘブル語の動詞「yare」は、単に「怖がる」ではなく「尊敬する」(respect)という意味が込められています。しかし、その「尊敬」とは、人間に対する「尊敬」と同じレベルのものではなく、人間よりもはるかに偉大な存在である神に対する「畏敬」(awe、reverence)のことです。ですから、「神を恐れる」ということは、神が私たちに何か罰を与えるのではないかと、神に対してビクビクした気持ち(恐怖心)を持つこと、「神を怖がる」ことではありません。それは、神は私たちが何か悪い事をすると怒り、私たちに罰を与え、何か災いが起こるようにさせる存在であるというネガティブなイメージから来ています。「神を恐れる」ということは、「神に対して畏敬の念を抱く」、「神を敬い畏れる」ということです。
逆に、あまりにも神に親しみを持ち過ぎて、神への畏れがないクリスチャンたちもいます。その人たちは、神は愛と恵みと憐れみに満ちた方で、恐れる必要はないと考えています。そして、自分たちは罪を赦され、義とされ、きよめられたので、大胆に神に近づくことが出来、神と親しく交わることが出来ると考えています。確かに、この考え方は間違ってはいません。しかし、神に対して馴れ馴れしくなり過ぎ、神を敬い畏れる気持ちがないのです。その態度は、日々の信仰生活の中や、礼拝の中に表れます。
・罪を犯すことに何の良心の痛みも感じず、悔い改めも口先だけの不徹底なものになる。
・御言葉に従うよりも、自分の気持ちや考え、世の中の流れに従う。
・神を第一としたり、神に忠実に仕えることに真面目に取り組まない。いい加減、適当。
私たちは、畏敬の念で神に近づき、神に従い、神に仕え、神を礼拝しなければなりません。
3.神を恐れるとは
① 神が創造者であり支配者であることを覚える
伝道者の書には、「神」という言葉が49回使われています。そして、その全てがヘブル語で「エロヒム」という言葉になっています。この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創1:1の「初めに、神が天と地を創造した」です。つまり、「神」(エロヒム)は、天地を造られた創造者なる方であるということです。ですから、「神を恐れる」ということは、神が創造者であることを覚えるということです。詩100:3にも「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」とあります。私たちは神によって造られたのですから、私たちは神のものなのです。つまり、私たちが主なのでなく、神が私たちの主なのです。創造者なる神が自分の支配者すなわち主であることを認めなければなりません。
② 神が私たちの主であることを覚えて主に仕える
創造者なる神が私たちの支配者すなわち主であるということは、この神のみに仕えなければならないということです。ヨシュアは、イスラエルの民に「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」と言いました(ヨシ24:14)。それは、かつてモーセがイスラエルの民に命じたことでした(申6:13-14)。偶像とは、異教の神々だけではなく、神以上に愛しているもの、大切にしているものです。例えば、お金、仕事、財産、愛する人、人生の夢や目標、趣味ややりたい事などです。いつの間にか、これらが自分の主となってしまっていないでしょうか。神よりも、世のものに従い、仕えてしまってはいないでしょうか。
③ 神が聖なる方であることを覚え悪から離れる
「主を恐れることは知恵の初め、聖ないる方を知ることは悟りである。」(箴9:10) ここで、「主を恐れること」と「聖なる方を知ること」は同じことを言っています。「神を恐れる」とは、神が聖なる方であることを覚えることでもあります。「聖さ」は神のご性質の一つで、神は全く悪も罪も汚れもない、完全に聖いお方です。神は、どんなに小さな罪や悪とも妥協することなく、必ずそれらを裁きます(伝12:14)。ですから、私たちが神を聖なる方として覚えるということは、神がどんな罪や悪をも受け入れることなく、それらを裁く方であることを覚え、悪から離れて、聖い歩みをするということです(箴3:7、8:13、16:6)。
神を敬い畏れることによって、多くの祝福を受け取ることが出来ます。
・人生の知恵、生きるための知恵が与えらる(箴1:7)。
・あらゆる問題や困難からの救いが与えられる(Ⅱ列17:39)。
・乏しいことがないように、必要が備えられる(詩34:9)。
・肉体の癒し、心の癒し、人間関係の癒しと回復が与えられる(マラ4:2)。
ですから、イザ33:6には「主を恐れることが、その財宝である」と言われています。「ヘブル人の助産婦たち」は「神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせ」ました(出1:21)。私たちも神を敬い畏れる者となりましょう。