神に用いられる器
Ⅱ列王4:1-7
24.10.6.
預言者の夫を亡くした妻がエリシャに彼女の子供たちが借金のために奴隷にされようとしていることを訴えた(1)。同様に、今日、人々は罪の奴隷となり、永遠の滅び(地獄)へと向かっている。エリシャは、そのような窮状から救うために彼女に言った。「隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。」(3) 彼女の子供たちが救われるために必要とされたのは「器」だった。今日も、滅び行く人々が救われるために必要とされているのは「器」。神は、人々を救いに導く「器」を求めている。その「器」とは、神の働き人のこと。パウロは、福音を伝えるための神の「選びの器」(使9:15)であると言われた。そして、私たちクリスチャン一人一人も「器」として神に召されている(ロマ9:24)。神は、人々を救いに導くために、どのような「器」を用いるのか。
1.からの器
エリシャは「からの器」を持って来るようにと言った。「からの器」とは、どのような器か。
① 人間的に誇るものがない者
神が用いる「器」は、人間的に誇るものがない者たち。聖書の中で、神が用いられる人たちは、人間的に誇れるものの何もない者たちだった。
・ダビデは、戦いの技術も武器も経験もない羊飼いの少年だったが、巨大な戦士ゴリヤテを打ち倒した(Ⅰサム17章)。
・エリヤは、私たちと同じような弱さを持つ人間だったが(ヤコ5:17)、 祈りによって天から火を降らせ、イスラエルの民を神に立ち返らせた(Ⅰ列18章)。
・イエスの弟子の多くは、教育も地位もない漁師だったが、全世界に福音を伝えていった。
\n・5千人の給食の奇跡に用いられたのは、5つのパンと二匹の魚を持った少年だった(マタ14章、マコ6章、ルカ9章、ヨハ6章)。
・このやもめも、夫もなく、お金もなく、食べるものもなく、地位も名誉もなく、何も頼るべきもののないか弱い女だったが、大きな奇跡を体験しました。
私たちも、お金も、地位も、権力も、特別な能力も、私たちは、愚かで、弱く、何の取柄もなく、見下された者でしかなく、人間的に誇れるものや頼れるものも何もない「からの器」。しかしそんな私たちを、神はご自身の働きのために選び、召して下さった(Ⅰコリ1:27-28)。
② エゴに死んだ人
神が用いる「器」は、エゴに死んだ「からの器」。(自己主張のない「からの器」) イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ16:24)と言った。十字架は、今日ではアクセサリーとなっているが、本来は死刑の道具だった。十字架は「死」を意味する。「自分の十字架」を負うということは、「自我に死ぬ」こと。そして「自我に死ぬ」とは、自分の思い、考え、気持ち、願い、計画、夢を手放すこと。これらのものを握りしめたままでは、イエスについて行くことも、イエスに従うことも、イエスに仕えることは出来ない。イエスについて行こう、従おう、仕えていこうとする時、自分の考え方やライフスタイルを変えることが求められることがある。今までやって来たことを止めたり、今までやったことのないことをすることがある。ルカ9:23に「日々自分の十字架を負い」とあるように、一度だけではなく、「日々」十字架にかけて死んで、イエスに従うことが必要。Cf.Ⅱコリ5:14-15。ガラ2:20。
2.油を注がれた器
エリシャは、「そのすべての器に油をつぎなさい」(4)と言い、このやもめは「子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ」(5)。「からの器」は、ただ空っぽのままだったのではなく、「油」が注がれた。聖書では、「油」は「聖霊」の象徴。Cf.Ⅰヨハ2:20,27、「そそぎの油」。今、イエスを信じる私たちには、聖霊の「油」が注がれている。Cf.Ⅱコリ1:21。しかし、問題はその「油」に満たされているかどうか。エリシャは、「そのすべての器に油をつぎ」、「いっぱいに」するように言った(4)。私たちも聖霊の「油」に「いっぱいに」満たされていることが必要。
聖霊は「いのちの御霊」(ロマ8:2)、「いのちを与える」「御霊」だから(ヨハ6:63)。エゼ47:1-12に、預言者エゼキエルが見た神殿から流れ出る水の幻が描かれている。その水が「海に注ぎ込むとそこの水は良くなる」(8)とあり、「この川がはいる所では、すべてのものが生きる」(9)と書かれている。エゼキエルは、将来、実現する神の国の様子を幻で見て預言した。この神殿は、イエスを信じるクリスチャンも表わしている。Cf.Ⅰコリ3:16、6:19、Ⅱコリ6:16。そして、「いのちを与える水」は、クリスチャンの内から流れ出る「聖霊」を表わす。イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハ7:38)と言われた。この「聖書が言っているとおりに」とは、「エゼキエルが預言しているように」ということ。イエスは、このエゼキエルの預言は、イエスを信じる者に成就すると語られた。私たちが聖霊に満たされる時、私たちから「いのちの水」である聖霊が流れ出て、私たちの周りにいる人たちにいのちをもたらす。神の働きをし、人々を救いに導くために必要なのは、聖霊の油注ぎ、満たし。主は、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカ4:6)と言われる。
エリシャは「からの器を、それも、一つ二つではいけません」(3)と言った。それで、やもめの子供たちは「次々に」彼女のところに「器」を運んで来た。神も、「一つ二つ」ではなく、出来るだけ多くの「器」が欲しい。私たち自身を聖霊の「油」に満たされた「からの器」としてささげよう。人々にイエスの救い、癒し、解放、いのちをもたらす「器」となろう。そして、家庭、職場、学校、地域を死んだ状態から生き返らせよう。
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