王を求めたイスラエル

Ⅰサムエル8章

23.3.19.

イスラエルは、サムエルの指導の下、平和な時代を過ごしていた(7:13-14)。そして、イスラエルは、士師時代から王政時代への移行していくこととなった。すなわち、神を王とする神政政治から、人間を王とする王政政治への移行であった。8章には、イスラエルに王が立てられるようになった経緯が記されている。イスラエルの王は、なぜ立てられるようになったのか。そこから何を学べるのか。

1.イスラエルは神ではなく人を求め頼った

「サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。」(1)「長男の名はヨエル」で「主は神である」という意味で、「次男の名はアビヤ」で「私の父は神である」という意味だった(2)。彼らは、既に「ベエル・シェバで、さばきつかさであった」(2)。しかし、残念ながら、サムエルの息子たちは、指導者となるには相応しくなかった。「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」(3) 彼らは、サムエルのようには、主とイスラエル人のために仕えなかった。サムエルは、忠実に主に仕えていたが、エリと同様に息子たちの教育に失敗していた。

そこで、長老たちは、サムエルに自分たちの王を立ててほしいと願った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(5) しかし「そのことばは、サムエルの気に入らなかった」(6)。イスラエル人が王を求めたことが間違っていたのか。主は、イスラエルに王が立てられるようになることを語っておられた(申17:14-15)。だから、イスラエル人が王を求めたこと自体が悪かったわけではない。問題は、イスラエル人の動機だった。主は言われた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7)

イスラエル人は、目に見えない神を求めるよりも、目に見える王を求め、目に見えない神に頼るよりも、目に見える王を頼った。イスラエル人たちは言った。「私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(20) イスラエル人は、もし自分たちに王がいれば、王が「自分たちのために」国を治め、王が「自分たちのために」先頭に立って戦ってくれると期待した。イスラエル人は、王を「自分たちのための」偶像にしてしまったのである。結局、彼らは、彼らを治めている神を退けることになったのである。

私たちも目に見えない神ではなく、目に見える人や物に頼ってしまうことはないか。まず主を求め、主に信頼しよう。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。セラ。」(詩62:8)

2.イスラエルは神の民であることを忘れた

イスラエル人は「ほかのすべての国民のように」(5)、「ほかのすべての国民のように」(20)なりたいと主張した。しかし、イスラエルは、神に特別に選ばれた神の民、聖なる国民であった。「…わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。」(レビ20:24)。「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』

サムエルの時代まで、イスラエルには王はいなかった。神が王としてイスラエルを治め、導いて来られた。今までは、イスラエルが他民族から攻撃を受けて、危機的な状況になると、士師という指導者が与えられ、イスラエルを敵から救い、イスラエルを治め、導いた。士師たちは、神の御心を求め、神の導きに従って、イスラエルを守り、導いた。そして、今まで、神に治められ、導かれることに、何の不足もなかった。むしろ、神によって勝利と平和と豊かさが与えられて来た。

しかし、イスラエル人は、そのような神を王とする体制に不満を感じていた。他の国々のように、王がいたら、もっと手早く、簡単に敵に勝利できると思った。そこで、イスラエル人は「ほかのすべての国民のように」なりたいと願ったのである。しかし、もしイスラエルが他の国のように、自分たちの上に王を立てるなら、他の国のように、その王によって支配されることになる。サムエルは、もし王の支配を受けるなら、王の奴隷となることを、

具体的な例をあげて警告した(11-17)。「それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。」(19)

イスラエルは、神の民としてのアイデンティティ(自己認識)を失ってしまったのであった。私たちクリスチャンも、特別に神に選ばれた神の民とされている(Ⅰペテ2:9-10)。私たちも、神の民としてのアイデンティティ(自己認識)を失ってはならない。

すなわち、神を王とし、神の御心を求め、神に従って歩むのである。

 

「ほかのすべての国民」とは、神を信じ恐れない、神に従わないこの世の人々と同じ。この世の人たちは、神が王なのではなく、自分自身が王となっている。だから、自分の考え、好み、気持ちに従って決断し、行動し、生活している。王がいて、王に導かれている他の国民をイスラエル人がうらやましがるように、自分の考えや好みで歩んでいる世の人たちをうらやましがってしまうことはないか。神を求め、神の御心に従って生きるなんて、自由がなく、堅苦しく思われるかもしれない。しかし、私たちは、特別に神に選ばれた神の民であり、神が私たちの王。神に王となっていただき、神に私たちを治め、導いていただこう。神が私たちを守り、人生を導き、全ての必要を満たして下さる。マタ6:33

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