父なる神の愛
ルカ15:11-32
22.6.19.
この例え話の中心人物は放蕩息子ではなく、放蕩息子を待ち続け、受け入れた父です。この父は、聖書の父なる神を表しています。放蕩息子の父を通して、父なる神がどのようなお方であるかを学びましょう。
1.父なる神は人間が正しい選択をすることを望んでおられる
「ある人に息子がふたり」(11)いました。ある時、弟が父に「私に財産の分け前を下さい」(12)と言いました。「財産の分け前」とは、父が亡くなった後に受け取る遺産です。しかし、この弟は、父が亡くなる前に遺産を求めたのです。すると父は、怒ることも咎めることもなく、「財産の分け前」を与えてしまいました。
そして、「幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立っ」(13)てしまいました。弟は、今の生活から逃げ出して、どこか「遠い国」へ行けば、幸せになれるのではないかという淡い希望を抱いたのでしょう。なぜ、この父は、弟を叱ったり、彼の要求を拒まなかったのでしょう。この父は、あまりにも優し過ぎ、甘過ぎるのではないでしょうか。この父は、大人となった息子に、自分の人生を自分で選ぶ自由を与えたのです。私たちの父なる神も、私たちに自分の人生を自分で選ぶ自由を与えておられます。
しかし、父なる神は、私たちを野放しにして、私たちが自分の欲望のままに、何でも好き勝手にしても良いと思ってはおられません。神は、私たちが間違った事、悪い事を選ぶことは望んでおられず、正しい事、良い事を選ぶことを望んでおられます。それで、神は、正しい事と間違っている事、良い事と悪い事を示しておられ、正しい事、良い事を選ぶようにと教えておられます。父なる神は、私たちが自由意志によって、神に従う選択することを願っておられます。私たちは、自分が行った結果は、自分が刈り取ることになります(ガラ6:7-8)。
2.父なる神は人間が悔い改めることを待っておられる
「遠い国に旅立った」弟は、「そこで放蕩して湯水のように財産を使って」しまいました(13)。「放蕩」とは、「酒や女遊びにふけること」です。賭け事などもしていたかもしれません。弟は「何もかも使い果たし」(14)てしまいました。すると、「その国に大ききんが起こり、彼は食べるものにも困り始め」(14)ました。落ちぶれた弟から人は去り、彼は孤独となり、誰からも助けてもらえませんでした。「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた」(15)とあります。彼はあまりにも空腹で、「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」(16)と思うほどでした。
弟は、人生のどん底に落ち、自分の過ちに気付き、「我にかえった」(17)のです。そして、父の家にいることが、本当は幸いなことなのだということに気付いたのです。そして、父の家に帰る決心をしました。弟は、父への謝罪の言葉も考えました(18,19)。弟は、ボロボロの身なりで、お腹を空かせ、裸足でトボトボと歩いていたことでしょう。また、父が怒っているのではないか、父に受け入れられるか不安もあったことでしょう。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(20)のです。父は、決して自分の息子のことを忘れたり、見捨てることはありませんでした。息子がどんなにどうしようもない人間であっても、父は息子の帰りを待ち続けたのです。この放蕩息子のように、神から離れ、神を無視して、自分勝手な生き方をしていても、父なる神は、見捨てたり、見放したりしません。その人が罪を悔い改め、ご自分の元に帰って来ることを待っておられるのです(エゼ18:23)。
3.父なる神は立ち返る者に恵みを与えて下さる
父は、召使たちに「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」(22) と命じました。
① 罪が赦され義とされる
アダムとエバが罪を犯した時、自分たちが裸であることに気付き、恥じました。すなわち、自分たちが罪深い存在であることが分かったのです。神は、アダムとエバの裸の恥を覆うために、「皮の衣」(創3:21)を用意されました。その「皮の衣」は、動物が殺され、血が流されることにてよって作られました。同様に、神は私たちの罪の恥を覆うための「着物」を用意して下さいました。その「着物」とは、十字架にかかって死に、血を流された「キリスト」です。この「着物」を着せられるということは、十字架で贖いの死を遂げたキリストによって、罪が赦され、義とされるということです(ガラ2:16)。
② 神の子どもとされる
「指輪」は、その人の身分や地位を証明するもので、印鑑と同じ役割も果たしました。ですから、父が弟に「指輪をはめさせ」たということは、弟が本当に自分の息子であるということを証明するものであったのです。同様に、神は、イエスを信じた時に、「神の子ども」(ヨハ1:12)とならせて下さいます。
③ 自由が与えられる
奴隷は、「くつ」を履かず、裸足で生活させられていました。弟は「遠い国」で、奴隷として「豚の世話」をしていたので、「くつ」を履いていなかったのでしょう。しかし、弟は、「くつ」を履かせられ、もう奴隷ではないと、宣言されたのです。同様に、イエスを信じた時に、罪の奴隷から解放されて、自由が与えられたのです(ガラ5:1)。
父は言いました。「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。」(23) 父は、家を出て行った弟が帰って来たので、嬉しくて仕方ありませんでした。誰でも、この放蕩息子のように、神に立ち返えるなら、神は喜んで迎え入れて下さり、全ての罪を赦し、子どもとして受け入れ、自由を与えて下さるのです。父なる神の元に帰りましょう。父なる神は、あなたの帰りを待ちわびています。父なる神の元にいることが最も幸いなことなのです。
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