愛による一致

コロサイ3:13-15

24.6.2.

この聖書箇所に書かれていることを一言で言うなら「愛による一致」と言える。

1.私たちは召されて一体となった

パウロは、「教会はキリストのからだ」(エペ1:23)と言って、教会を体に例えている。そして、私たち一人一人は、その「キリストのからだ」である「教会」を構成する「各器官」(メンバー)であると教えている(Ⅰコリ12:27)。Ⅰコリ12:13には、「…私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように…」なったと書かれている。Cf.エペ3:6。神は、私たちをキリストの体である教会に、一体となるように召された(コロ3:15)。「教会」は、ギリシヤ語で「エクレシア」といい、「召し集められた者」という意味。

さらに、エペ4:1-3には「…召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」とある。「一致を熱心に保ちなさい」はNIVでは「Make every effort to keep the unity」。「一致を保つためにあらゆる努力をしなさい」という意味。私たちは、「キリストのからだ」なる「教会」として「一致」するために、自分の意志を傾け、努力しなければならない。

イエスは、弟子たちが「一つとなる」ように祈られた(ヨハ17:11,21,22,23)。もし一致しないのなら、主の御心に反し、主を悲しませている。イエスは、一致の重要性について、「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません」(マコ3:24-25)と語られた。同様に、教会も、不一致によって、弱くなり、力を失ってしまいます。教会が力強い勝利の教会となるためには、一致が必要。しかし、残念ながら、今日、クリスチャンたちの間に一致がないために、教会は弱く、福音宣教が進まず、リバイバルが妨げられていることが多い。「キリストのからだ」である「教会」として、「一致」しなければならない。

2.愛によって結ばれる

コロ3:14には、「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」とある。「キリストのからだ」である「教会」として「一致」するためには「愛」が必要。エペ4:16。イエスは、イエスが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うようにと命令された(ヨハ13:34)。この「あなたがた」とは、弟子たちのこと。従って、弟子たちの間で、互いに愛し合うようにということ。教会の兄弟姉妹の間で愛し合いなさいということ。

私たちが互いに愛し合うことによって、私たちがクリスチャンであることが証しされる(ヨハ13:35)。逆に、兄弟姉妹を愛さないなら、神に対する愛もない(Ⅰヨハ4:20-21)。神を愛する者は、兄弟姉妹をも愛する。イエスが「互いに愛し合いなさい」と言っている相手は、自分が好きな人、親しい人ばかりではない。親切で、優しい人たち、良い人たちを愛するのは簡単。そういう人たちに対しては、特別に愛を働かせる必要ない。自然と愛せる。しかし、私たちの周りには、そのような愛し易い人ばかりではない。自分にとって苦手なタイプの人、愛し難い人もいる。しかし、イエスは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまたそのような人たちをも愛するようにと言われた。私たちが「キリストのからだ」である「教会」として、「一致」するためには、私たちが互いに愛し合う「愛」が必要。

3.互いに赦し合う

イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」とは、主が私たちを「赦してくださったように」、私たちも「互いに赦し合」うということでもある(コロ3:13エペ4:32)。ある時、ペテロは、イエスに何度まで赦すべきか尋ねた。すると、イエスは「七度を七十倍するまで」(マタ18:22)赦しなさいと言われた。そして、その後で、「無慈悲なしもべ」の例え話をされた(マタ18:23-35)。「王」から「一万タラントの借りのあるしも」が「借金を免除」してもらった。「一万タラント」は6000デナリで、1デナリは当時の労働者一日分の労賃。しかし、「一万タラント」の「借金を免除」してもらった「しもべ」は、「百デナリの借りのある者」を赦さず、「牢に投げ入れ」てしまった。それを知った「王」は、非常に怒り、その「しもべ」を牢に入れた。このたとえ話の中で、大切なポイントは、33節の「主人」の言葉。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」すなわち、主に赦された者として、他の人も赦すべきであるということ。

ギリシヤ語で「赦す」という言葉には、「解放する」という意味もある。誰かを赦すということは、その人を罪の責めから解放してあげるということ。しかし、赦しは、相手を解放するだけではなく、自分自身をも解放することにもなる。もし、私たちが赦さないなら、いつまでも怒り、恨み、憎しむ。いつまでも心は傷つき、被害者意識を持ち続け、惨めな気持ちを持ち続けるようなる。自分が握りしめている怒り、憎しみ、復讐心を手放し、神の手に委ねなければならない。Cf.ロマ12:17-21イザ43:25-26で、主は、私たちの「罪を思い出さない」と言われた。私たちも他の人の「罪を思い出さない」ことが必要。

 

私たちは「キリストのからだ」なる教会に一体となるように召された。その召しを全うするために、「御霊の一致」を熱心に求めよう。互いに愛し合い、赦し合い、キリストの愛によって結び合わされていこう。

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