復讐しなかったダビデ

Ⅰサムエル24章

24.3.17.

サウル王の追跡から逃れたダビデは、「エン・ゲディの要害」(23:29)に住みました。24章は、このエン・ゲディでの出来事です。ここでダビデは、自分の命を狙っているサウルを殺害するチャンスが与えられました。ダビデはサウルに対してどのような態度を取ったのでしょうか。

1.サウルを殺さなかったダビデ

サウルは、ペリシテ人との戦いを終え、ダビデがエン・ゲディにいると聞き、3千人の精鋭を率いて再びダビデを追って来ました(1-2)。水が豊富なエン・ゲディは、羊ややぎを飼うのに適した場所で、「羊の群れの囲い場」があり、そこには「ほら穴」もありました。夜の間、羊たちをそのほら穴に入れておいたのでしょう。サウルは「用をたすために」兵たちを離れて一人でそのほら穴に入って行きましたが、ほら穴の奥の方には、ダビデと部下たちが隠れていたのです(3)。しかし、サウルはそこにダビデたちがいることに全く気付いていませんでした。

この時、サウルは全く無防備な状態にありました。すると、ダビデの部下が、今がサウルを殺すチャンスであると告げました(4)。サウルを殺してしまえば、ダビデは自分や部下たちの命を守ることが出来ます。サウルがいなくなれば、もう逃亡生活を送らなくてもよいのです。ダビデにとっては、自分が楽になるための誘惑であっかたもしれません。しかし、ダビデは立ち上がると、用をたしているサウルに近づき、サウルの上着の裾をこっそりと切り取っただけで、サウルを殺しませんでした(4)。ダビデは「サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛め」(5)ました。

ダビデは部下たちに言いました。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(6) サウルを選び、イスラエルの王として立てたのは、主ご自身でした。ですから、そのサウルに手を下すということは、サウルを王として立てた主に逆らうこと、主の権威を侵害することになりました。たとえサウルを殺さなかったとしても、王の上着の裾を少しだけ切り取ることだけでも、主の権威を侵害することになるので、ダビデは心を痛めたのです。ダビデは、主を恐れ、主の主権を認めていたのです。こうして、ダビデは、部下たちがサウルに襲い掛かることも許しませんでした(7)。ロマ13:1-2

2.裁きを主に委ねたダビデ

サウルは、自分の上着の裾が切り取られたことにも気付かないでほら穴を出て来ました。その後からダビデも出て来て、サウルに「王よ」と呼びかけました。サウルが後ろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、サウルに礼をしていました(8)。ダビデはサウルに「ダビデがサウルに害を加えようとしている」という人々の噂を信じているのかと問い掛けました(9)。しかし、それは人々の噂ではなく、サウルが自分で勝手に抱いていた被害妄想でした。ダビデはサウルを直接責めることを避けるため、人々が噂をしていることにしたのです。ここにも、ダビデのサウルに対する配慮が見られます。

そしてダビデは、ほら穴の中でのことを説明しました。ダビデにはサウルを殺す機会があったにも関わらず、サウルのことを思い、サウルが主に油注がれた王であることを認め、サウルを殺さなかったということを離しました(10)。それが真実であることの証拠として、切り取ったサウルの上着の裾を見せて、サウルに対して決して悪を企む者でもなく、反逆者でもないことを示しました。それなのに、サウルがダビデの命を奪おうとしていると訴えました(11)。

ダビデは自分が潔白であることを精一杯訴えましたが、「どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません」と最終的な裁きは主に委ねました。このようにダビデは、自分で裁いたり、復讐したりしないで、全てを主に委ねたのです。ですから13節でも、「私はあなたを手にかけることはしません」と断言しています。そして、最後に、ダビデは、全ての裁きを主に委ねて祈りました。「どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」(15)

世の中では、「やられたらやり返す」ということが言われています。確かに、人から悪く言われたり、悪い事をされると、仕返ししたくなります。それは、自分は悪くないのに、悪い事を言われたり、されたりして悔しいから、やり返すことで、自分の気持ちをスッキリさせ、自分の正しさを認めさせるためです。そこには、常に悪いのは相手で、自分は被害者であるという意識があるのです。しかし、もしかしたら、自分にも何か非があるかもしれません。自分で裁いたり、復讐したりするということは、自分を神とすることになります。それは、神の主権を犯すことであり、神に対する高慢です。主が正しく裁き、正しく報いて下さると信じ、主に全てを委ねることが大切です。ロマ12:17-21。Cf. レビ19:18申32:35箴20:2225:21-22マタ7:1-2

 

サウルは、ダビデの真実さと優しさに触れて、心が砕かれ、へりくだらされ、悔い改めへと導かれました(16-20)。ダビデに対するサウルの思いは全く変えられました。しかし、残念なことに、サウルの悔い改めは一時的な感情でしかなかったことが後で分かります。私たちもダビデのように、主を恐れ、主の主権を認め、主に従いましょう。また、自分で裁いたり、復讐したりしないで、全てを主に委ねまししょう。イエスも裁きを父なる神に委ねることを模範をもって示されました。Ⅰペテ2:21-23

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