帰って来た主の箱

Ⅰサムエル6章

23.3.5.

イスラエルは、ペリシテ人との戦いに敗れ、大切な主の箱まで奪われてしました。その後、ペリシテ人は、主の箱をアシュドデに運び、ダゴンの宮のダゴンの横に安置しましたが、ダゴンの像は主の箱の前に倒され、町の人々も腫物によって打たれてしまいました。それで、アシュドデの人々は、災いをもたらす主の箱をガテに移しましたが、今度はガテの人々に腫物ができてしまい、主の箱はエクロンに送られることになりました。しかし、エクロンの人々が主の箱が来るのを拒んだため、ペリシテ人は主の箱をイスラエルに戻すことにしました。主の箱は、どのようにイスラエルに戻されたのでしょうか。

1.罪のための償い(贖い)がなされた

ペリシテ人は、自分たちに災いをもたらす主の箱をイスラエルに戻したいと思いながらも、どのように戻したらいいのか分からないまま、7カ月が過ぎてしまいました(1)。そこで、「ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて」、「主の箱を…どのようにして、それをもとの所に送り返せるか」(2)尋ねました。すると、彼らは、「償い」(3)として「五つの金の腫物、すなわち五つの金のねずみ」(4)を添えてイスラエルに返すようと答えました。そうすれば「この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう」(5)と言いました。ペリシテ人を襲った腫物は、ねずみを媒介にした病気であったのでしょう。

ここで、ペリシテの祭司や占い師たちが勧めていることは、罪の償いでした。「償い」とは、「犯した罪などに対して、金品や行為で埋め合わせをすること」です。彼らは、異教徒であり、偶像礼拝者ではありましたが、災いの原因は、主の箱を奪い取ったという罪のためであると悟りました。彼らは、自分たちの犯した罪を認め、その償いをして、赦しを得ようとしたのです。皮肉なことに、ペリシテ人は、イスラエル人よりも問題の本質を理解していました。イスラエル人は、ペリシテ人との戦いに負けた時、その原因が自分たちの不信仰と不従順の罪によることを悟らず、悔い改めませんでした。悔い改め無しに、やり方を変えるだけでは、また同じ罪や失敗を犯してしまうのです。

私たちにも、罪の悔い改めと、主の赦しが必要です。しかし、感謝なことに、私たちには既に罪の償いが払われています。それは、私たちの罪を負って十字架で死なれたキリストです(マタ20:28Ⅰコリ1:30)。私たちが自分の罪を告白し、悔い改めるなら、その罪は赦されるのです(Ⅰヨハ1:9)。ペリシテの祭司と占い師は「なぜ、あながたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか」(6)と語り、柔らかい心で償いを実行するように言いました。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくならしてはならない」のです(ヘブ3:15)。

2.主の導きに委ねた

ペリシテの祭司と占い師は、主の箱の具体的な運び方を教えました(7-8)。ペリシテ人たちは、主の箱を新しく造った台車に乗せました。そして、その台車をまだくびきをつけたことがなく、子牛に乳を飲ませている2頭の雌牛に引かせることにしました。その際、雌牛たちの子牛は、牛小屋に閉じ込めておきました。くびきをつけたことのない雌牛は、まだくびきに慣れていないので、くびきを嫌がって取り除こうとするでしょう。また、子牛に乳を飲ませている雌牛は、牛小屋にいる子牛の元に戻ろうとするでしょう。ですから、普通なら、この状態では、主の箱はイスラエルに戻ることはありません。もしそうなら、ペリシテ人の町々に起こった災いは、単なる偶然であって、イスラエルの神によることではないと判断出来ます。しかし、それにも関わらず、雌牛たちがイスラエルへと向かうのであれば、ペリシテ人の町々で起こった災いは、確かにイスラエルの神の手によるということです。

「すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった」(12)のです。これによって、ペリシテ人は、自分たちの町で起こった災いがイスラエルの神によるものであることを確信しました。「それを行くがままにさせなければならない」(8)ということは、人間的な考えや方法によらず、全てを主の導きに委ねたということです。ペリシテ人たちは、自分たちの考えに従わず、主の手に委ねたのです。Cf.詩37:5。全てを主の導きに委ね、どんな導きをも感謝して受け止めることが大切です。その時には、「どうしてこうなるのか」と理解出来ないこともありますが、主は「わたしのしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハ13:7)と語っておられます。Cf.イザ55:8-9

 

ベテ・シェメシュの人々は7カ月ぶりに主の箱が戻って来たのを見て大喜びしました(13)。「小麦の刈り入れをしていた」とあるので、5月から6月頃の暑い時期でした。そして、人々は「その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにとして主にささげ」(14)ました。ベテ・シェメシュは、レビ人の町でした(ヨシ21:16)。こうして、主の箱は、再びイスラエルに帰って来ました。主ご自身がイスラエルに帰って来られたのです。それは、イスラエルがどんなに不信仰で不従順であっても、神の民であったからです。

様々な問題や困難の中にある時、人間的な考えで、的外れな解決策をとるのではなく、主を求め、主の前に出て、自分に悔い改めるべき点がないか尋ね求めましょう(伝7:14)。罪は、主との親密な交わりを断ち、主の祝福の流れをせき止めてしまいます(イザ59:2)。私たちが自分の罪を告白し、悔い改めるなら、その罪は赦されるのです(Ⅰヨハ1:9)。

また、自分の思いや感情に従うのではなく、世の流れに従うのでもなく、私たちの人生を主に委ね、主に導いていただきましょう(箴3:5-6)。

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