子ろばに乗った王なるイエス
マタイ21:1-11
23.4.2.
イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城したということは、イエスがどのようなお方であるかということを示す出来事でした。
1.イエスは預言された王(メシヤ)として来られた
イエスと弟子たちは、エルサレム近くの「オリーブ山のふもとのベテパゲ」(1)にいました。イエスは、2人の弟子に、「向こうの村」に「ろばの子」がいるので、「それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」と言われました(2)。そして、「もしだれかが何かを言ったら」、「主がお入用なのです」と言えば、「すぐに渡してくれます」と言われました(3)。
この時、弟子たちは、イエスがなぜ「ろばの子」を連れて来るように言われたのか理解していませんでした。理解出来るようになったのは、イエスが復活し天に上られた後でした(ヨハ12:16)。「イエスについて書かれたこと」とは、旧約聖書の預言のことです。ですから、マタイも、「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである」(4)と言っています。その預言とは、ゼカ9:9です。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
「王」とは「メシヤ(キリスト)」のことです。これはメシヤ(キリスト)到来の預言でした。「王」、「メシヤ(キリスト)」が「子ろば」に乗って、「エルサレム」に来るというのです。ですから、イエスが「子ろば」に乗って、「エルサレム」に入ったということは、イエスが旧約聖書で預言されていた「王」、「メシヤ(キリスト)」であるということです。イエスは、旧約聖書で預言されていたメシヤ(キリスト)なのです。
2.イエスはへりくだった王として来られた
イエスが乗ったのは、「荷物を運ぶろばの子」(5)であり、「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」(マコ11:2)でした。つまり、さらに価値の低いもの、取るに足りないもの、劣ったものでした。普通は、王は、そのような「ろばの子」には乗りません。立派な馬に乗ります。イエスが馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られたということは、イエスが「へりくだった王」であることを示すことだったのです。
ゼカリヤは、「柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」と言っています。この「柔和」という言葉は、ヘブル語で「卑しい、へりくだった、抑圧された奴隷状態にあること」という意味です。ですから、メシヤ(キリスト)が「柔和」であるということは、メシヤ(キリスト)がへりくだり、自分を卑しくし、しもべとなったということです。「ろばの子」に乗って、「エルサレム」に入られたイエスは、へりくだり、卑しくなり、しもべとなった「王」、「メシヤ(キリスト)」です(ピリ2:6-8)。
イエスはへりくだり、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。イエスの死は、私たちを死と滅びから救うための身代わりの死でした(イザ53:5-6)。イエスは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で、十字架につけられました。イエスの頭上には、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きがありました(ヨハ19:19-20)。その罪状書きは、ヘブル語、ギリシヤ語、ラテン語で書かれました。イエスは、へりくだり、十字架の死にまで従われた王、メシヤ(キリスト)なのです。
3.イエスは平和の王として来られた
当時のユダヤ人たちが考えていたメシヤ(キリスト)は、イスラエルをローマの支配から武力によって解放し、再びイスラエル王国を建ててくれるメシヤ(キリスト)でした。しかし、イエスは、そのような政治的・軍事的な王として来られたのではありません。イエスは、私たちに真の平和をもたらす「平和の王」として来られたのです(ゼカ9:10)。
今日、多くの人々が「心の平和」を得るために様々な試みをしています。例えば、富や財産などを得ることによって、趣味などこの世の様々な楽しみによって、あるいは、酒、タバコ、ギャンブル、薬物などによってです。しかし、それらによっては本当の平安は得られません。この世のものによる心の平和は、一時的なものに過ぎません。私たちにとって最も必要なものは「神との平和」です。「神との平和」があれば「心の平和」が与えられるのです(ヨブ22:21)。
「神との平和」を得るためには、罪が取り除かれなければなりません。イエスは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架で死んで下さいました(Ⅰペテ2:24)。イエスの死によって、罪は処分され、神との和解と平和が与えられたのです(コロ1:19-20)。イエスを信じる時に罪は赦され(使10:43)、さらに義と認められます(ロマ10:10)。義と認められた者は、「神との平和」が与えられます(ロマ5:1)。そして、その結果、「心の平和」も「人との平和」も持つことが出来るのです。イエスは、「平和の王」として来られたのです。
エルサレムにいた人々は、イエスのために「自分たちの上着を道に敷き」、「木の枝を切って来て、道に敷いた」りして歓迎しました(8)。ヨハ12:13によると、その「木の枝」は「しゅろの木の枝」でした。群衆は、「ホサナ」(今、お救い下さい)と叫んで、イエスを大歓迎しました。しかし、イエスが自分たちの期待に応えてくれないことが分かると、この数日後には、イエスに対して「十字架につけろ」(15:13-14)と叫びました。結局、群衆は、自分たちに都合の良い王を求めていたのです。自分の願いをかなえてくれる王、自分を幸せにしてくれる王を求めていたのです。
私たちは、私たちに本当の平和を与えるために、へりくだり、しもべとなって来て下り、十字架にかかって、死んで下さった王なるイエスに心から感謝しましょう。このイエスを信じて、神との平和をいただき、心の平和と人との平和をいただきましょう。また、このイエスを自分の王として、イエスに従いましょう。
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