主の霊を受けたサムソン(前)
士師13-16章

25.3.2.
サムソンは、士師記の中で最後に登場する12番目の士師。サムソンは、どのような士師だったのか。そして、サムソンからどのようなことを教えられるのか。
1.主の働きのために聖別された
サムソンが生まれた時代、イスラエルは主の前に罪を犯したので、40年間ペリシテ人に支配され苦しめられていた(13:1)。サムソンが生まれる前に、御使いはサムソンの母に言った。「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」(5) 「ナジル人」とは、「ささげられた者」、「聖別された者」という意味。サムソンは、「イスラエルをベリシテ人の手から救」うために、生まれる前から、「ナジル人」として選ばれていた。私たちもサムソンのように、人々を救うために、生まれる前から聖別され、選ばれている(エペ1:4。ヨハ15:16。Ⅰペテ2:9)。
2.聖別された者の生き方
「ナジル人」は、3つの誓いを守らなければならなかった。
① ぶどう酒や強い酒を断たなければならない(民6:3-4)
② 頭にかみそりを当ててはならない(民6:5)
③ 死体に近づいてはならない(民6:6-8)
だから、御使いは、サムソンの母に言っていた。「ぶどう酒や強い酒を飲んではならない」、「汚れたものをいっさい食べてはならない」(4)、「その子の頭にかみそりを当ててはならない」(5)。今日、私たちも、人々を救うために、生まれる前から選び分けられ、聖別されている。だから、サムソンが、「ナジル人」として相応しい生き方を求められたように、私たちも主に選び分けられ、聖別された者として、相応しい生き方が求められている。
① 聖霊に満たされ導かれる
サムソンは、ナジル人として、ぶどう酒や強い酒を飲むことが禁じられた。それは、自分の肉の欲を満たし、肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、御霊に従って生きる者となるため。私たちも、聖別された者として、自分の肉を満足させ、肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、御霊に従って生きる者とならなければならない(ガラ5:16,25。エペ5:18)。
② 自分を主にささげる
ナジル人の長い髪の毛は、彼らの献身の誓いを表していた。髪の毛を伸ばすことによって、自分が主にささげられた者であることを示した。今日、献身の表れとして髪の毛を長く伸ばす必要はない。しかし、日々、自分を主にささげることが求められている(ロマ12:1)。体をささげるということは、自分自身を御言葉に従わせるということ。
③ きよめられる
ナジル人は、死体に近づくことが禁止されていた。それは死体に触れて汚れないため。ナジル人は、日常生活を普通に送っていたが、主に聖別された者として、汚れないよう、聖さを守らなければならなかった。私たちも、主に聖別された者として、聖さを守らなければならない(Ⅰペテ1:15-16。Ⅰテサ4:3-7。Ⅱコリ6:16-18)。そして、聖められた者は、神に用いられる器となる(Ⅱテモ2:21)。
3.聖霊が下り力ある働きをした
サムソンには、人並外れた怪力が与えられていた。それは、サムソン自身の肉体的な力ではなく、神から与えられた力だった。Cf.13:25 サムソンの上に「主の霊」が下って、特別な力を発揮した。サムソンは、聖霊が下り、獅子と戦い、素手で簡単に獅子を引き裂いてしまった(14:5-6)。サムソンに聖霊が下り、自分を縛っていた綱を「火のついた亜麻糸のように」断ち切り、「真新しいろばのあご骨」で、千人のペリシテ人を打ち倒してしまった(15:14-15)。16:1-3。ペリシテ人は、サムソンを捕らえるために、「町の門で一晩中、彼を待ち伏せた」(2)。「しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。」(3)
サムソンは、主の霊が注がれ、特別な力が与えられ、イスラエルを救った。このサムソンの姿は、私たちクリスチャン、教会の本来あるべき姿。私たちにも聖霊の注ぎが与えられ、大きな力が与えられている(使1:8)。サムソンに主の霊が下り、獅子を引き裂き、千人のペリシテ人を倒したように、私たちも、聖霊の力によって、悪魔と悪霊どもを打ち破り、勝利することが出来る(マコ16:17。ルカ10:19。ロマ16:20。Ⅰヨハ4:4。黙12:11)。サムソンが町の城門の扉を門柱ごと引き抜いて破壊してしまったように、私たちも、悪魔に捕らわれている人々を解放し、主に導くため、悪魔の国を土台から揺り動かし、ハデス(地獄)の門を打ち破り(マタ16:18。使26:17-18)。
サムソンという名前には、「太陽の人」という意味がある。サムソンの両親は、サムソンがイスラエルの希望の光となることを期待したのだろう。クリスチャンと教会も、世の人々に希望の光をもたらす存在となることが期待されている。私たちも人々を救いに導くため、世の始まる前から選び分けられ、聖別されている。自分自身を聖めて、主にささげ、聖霊に満たされて、聖霊の力をいただこう。そして、聖霊の力によって、敵の要塞を打ち破り、捕らわれている人々を解放しよう。
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