主の導きに従ったダビデ
Ⅰサムエル23章
24.3.3.
23章には、ダビデが自分の考えに従わず、神の導きを求めている姿が描かれています。
1.主の導きを祈り求めるダビデ
「その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」」(23:1) その時、ダビデは「主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」 すると、主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」」(23:2) しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」(23:3) ダビデの部下たちの言うことは、非常に現実的で、常識的なものでした。ケイラの町のために戦えば、目立ってしまい、サウルに見つかってしまうし、自分たちにはケイラのために戦う余裕もなかったからです。そこで、「ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」」(23:4) 「ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。」(23:5)
人生には、決断しなければならないことや、選択しなければならないことがあります。そのような時、ダビデのように、まず主の御心と導きを祈り求めることが大切です。私たちが主を呼び求め、御心と導きを祈り求める時、主は答えて下さいます(エレ33:3)。主の御心を求める時には、主が語られることには何でも従いますという姿勢が大切です。自分の願いや考えを押し通そうとするのではなく、サムエルのように、「主よ。お話ください。しもべは聞いております」(Ⅰサム3:10)と、へりくだって主の前に出て行かなければなりません。「主の御心であるなら何でも従います」という心の姿勢で、主を待ち望むことが大切です。「聞く耳のある者」(マコ4:9,23)だけが主の語り掛けを聞くことが出来るのです。
2.主の導きを確認するダビデ
ダビデたちはケイラへと向かい、ペリシテ人を打ち破り、ケイラの人々を救いました。しかし、ダビデがケイラにいることが、サウルに知られてしまったのです。「そこでサウルは民をみな呼び集め、ケイラへ下って行き、ダビデとその部下を攻めて封じ込めようとした。」(23:8) それを知ったダビデは主に尋ねました。「「ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。…」 主は仰せられた。「彼は下って来る。」」(23:11) さらに、ダビデは主に尋ねました。「「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」 主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」」(23:12) 「そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。」(23:13)
この時、ダビデは、どのようにして主の語り掛けを聞き分けたのでしょう。ダビデは祭司エブヤタルに「エポデをもって来なさい」(23:9)と言っています。エポデには「さばきの胸当て」が付いていて、「ウリムとトンミム」が入っていました(出28:30)。祭司は、その二つの石を使って、主の御心を確認していました。Cf.Ⅰサム28:6、箴16:33。ダビデも、エブヤタルのエポデにあるウリムとトンミムを使って、主に伺ったのでしょう。しかし、今日、主の導きを確認するものは、聖書に記されている御言葉です。御言葉には、主の御心が明確に記されています。聖書は信仰と人生の規範です。Ⅱテモ3:16。自分に示されていることを、御言葉に照らし合わせてみましょう。Cf.詩119:105,130。
3.主の導きに従う者を主は守られる
ダビデは、荒野をさまようことになりましたが、主はダビデを守られました(23:14)。しかし、また新たな危険が迫って来ました。「さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。…」」(23:19) 「「王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。」」(23:20) ジフの人々もケイラの人々同様、祭司の町ノブのようになるのを恐れたのでしょう。「サウルとその部下がダビデを捜しに出て来たとき、このことがダビデに知らされたので、彼はマオンの荒野の中で、岩のところに下り、そこにとどまった。サウルはこれを聞き、ダビデを追ってマオンの荒野に来た。」(23:25) 「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。」(23:26)
ついに、サウルたちは、荒野にいるダビデたちに追い付いて来ました。サウルたちは岩山の一方の側を進み、ダビデたちは岩山のもう一方の側を進みました。両者が出くわすのは、もはや時間の問題でした。状況はとても緊迫していました。その時、サウルは、ペリシテ人が侵入して来たことを知らされ、ダビデを追跡することを止めて、引き返して行ったのです(23:27-28)。これは、偶然ではなく、主の介入、主の導きによる主の救いの御業でした。「こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。」(23:28) この時の経験をもとに記された詩篇が詩54篇です。ダビデは言っています。「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(詩54:4)
ペリシテ人がケイラを襲って来た時、ダビデが主の導きを求めたように、まず主の御心と導きを祈り求めることが大切です。主が語られることには何でも従いますという姿勢で、主の御心と導きを求めましょう。今日、主の導きを確認するものは、聖書に記されている主の御言葉です。主の御言葉を通して、主の御心と導きを求めましょう。主は、主の御心を求め、主を信頼し、主の導きに従って歩む人を守り、導いて下さいます。ダビデのように、主の御心を求め、主の導きに従って歩みましょう。Cf.箴言3:5-6。
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