主に選ばれたサウル
Ⅰサムエル9章
23.4.16.
イスラエルの最初の王として選ばれたのは、サウルでした。9章には、サウルがどのような人物だったのか、どのように王として選ばれたかが記されています。
1.謙遜に聞く耳を持つ
サウルについて、次のように書かれています。「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」(2) しかし、サウルは、自分の外見を誇って高ぶることなく、とても謙遜で従順でした。「あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなく」なりました(3)。キシュはサウルに言いました。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」(3) サウルは、父の言葉に従い、召使の若者と一緒に、雌ロバを捜しに出かけました。
しかし、あちらこちら野山を歩きましたが、雌ろばは見つかりませんでした。そこで、サウルは召使の若者に「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから」と言いました(5)。サウルが諦めて帰ろうとすると、召使の若者が言いました。「待ってください。この町には神の人がいます。…今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」(6) この「神の人」とは、預言者サムエルのことです。「こうして、ふたりは神の人のいる町へ出かけた。」(10)
サウルは、召使の若者の言葉を謙遜に受け入れ、サムエルの元へ行くことにしました。サウルは、自分より身分も低く、若い召使の言葉にも耳を傾ける謙遜さがあったのです。このように、サウルは、自分よりも上の人の言葉に従う人であっただけではなく、自分よりも下の人の言葉にも、謙遜に耳を傾けて聞く人でした。その結果、サウルはサムエルの元に導かれ、王となるための油注ぎを受けたのです。
人の言葉に謙遜に耳を傾けて聞くことが必要です。「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」(箴12:15) 「はが者は忠告を無視し、知恵ある人は人のことばに耳を傾けます。」(LB) 「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。」(箴18:1) 「自分のことしか考えない者は、あらゆる規則に盾をつき、自分のやり方を押し通します。」(LB) 人は、自分が聞きたいことを言ってくれる人を求めてしまうものです。自分にとって耳障りのいいことを言ってくれる人、常に自分の意見に賛同してくれる人からの言葉だけを求めるのではなく、自分とは違う意見や自分にとって厳しい言葉にも耳を傾けて聞くことが大切です。
2.日常生活の些細なことにも主の導きがある
サウルと召使の若者は、サムエルのいる町へと向かいました(10)。「彼らはその町の坂道を上って行った。水を汲みに出て来た娘たちに出会って、「ここに予見者がおられますか」と尋ねた。」(11) 「すると、娘たちは答えて言った。「ついこの先におられます。今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから。」(12) 「町にお入りなると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。…今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。」」(13) 「彼らが町へ上って行って、町にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た。」(14)
今まで、父の雌ろばを探し回っても、全然見つからなかったのに、サムエルにはグットタイミングで会うことが出来ました。サムエルは、サウルと会うようになることを予め知っていました。サムエルがサウルに会う前に主はサムエルにサウルのことを告げていたからです(15-16)。そして、「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」(17)
全ての出来事は、偶然ではなく、主の導きであったのです。父の雌ロバがいなくなったこと、雌ロバを捜し回ったこと、雌ろばを見つけられず、召使の若者がサムエルを訪ねるように言ったこと、水汲みの女たちに出会ったこと、ちょうどその場にサムエルがやって来ていたこと。これら全ては偶然起こった出来事ではなく、サウルがサムエルに会うための必然的出来事だったのです。父の雌ロバがいなくなった時から、これら全てはサウルをサムエルに会わせ、彼をイスラエルの王とするための主の導きであったのです。雌ろばがいなくなったということが、サウルを王とするための主のご計画であったのです。一つ一つの出来事が、主によって、組み合わされ、導かれて来たのです。このようにサウルは、目に見えない不思議な主の御手によって、イスラエルの王となるように導かれました。
同じように、主は、私たちの生活の全てのことを支配し、その背後で働いておられ、見えない御手で私たちの人生を導いて下さっています(伝3:11、ロマ8:28)。ですから、どんな事でも疑わず、つぶやかずに行わなければなりません(ピリ2:13-14)。
サウルが父の言葉に謙遜に聞き従い、召使の若者の言葉にも耳を傾けて聞いたように、人の意見や助言などに、謙遜に耳を傾けて聞く者となりましょう。
サウルが日常生活の様々な出来事によってイスラエルの王へと導かれたように、私たちも日常生活の一つ一つの出来事によって、主の御心に導かれていくのです。私たちの身の回りに起こる事に、偶然はありません。全ては主の御手の中にあります。主にあっては、無駄なことは一切なく、主の計画は着々と進められているのです。暫く時間がかかり、何ヶ月も、何年も、辛抱強く待たなければならないこともあります。しかし、主には最善の時があり、最善のことをして下さるのです。主の御手に人生を主に明け渡して、主に導かれて歩む人生を送りましょう(詩37:5)。
Filed under: 伊藤正登牧師