ヨナタンに愛されたダビデ2

Ⅰサムエル20章

23.11.19.

20章には、ダビデとヨナタンの友情が描かれている。ヨナタンは、心からダビデを愛していた(17)。このヨナタンのダビデに対する愛を通して、私たちに対する主の愛が見られる。

1.ヨナタンはダビデの悩みを聞く者となった

19章には、サウルがダビデを殺そうとしたが、主がダビデを守られたことが記されている。その後、再び「ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに」(1)戻って来た。ダビデは、サウルによる不当な扱いに悩んでいた。これまで、ダビデは、サウルに仕え、命懸けで敵と戦い、イスラエルに勝利をもたらした。ダビデとしては、常に最善を尽くしてサウルのために働いてきた。それなのに、「なぜ、サウル王は、自分を殺そうとしているのか。自分の何が悪かったのか」(1)とダビデは親友ヨナタンに打ち明けた。

人生には、「どうして」と問いかけたくなるような出来事が起こる。例えば、突然の病、愛する人との死別、自然災害や事故の巻き添え、不当な扱いなど。そのような時、私たちもダビデのように、「自分は何も悪くないのに、どうしてこんなことが起こるのか」と問いかけることがある。そのような時に、悩みを聞いてもらえる友人がいると、本当にありがたい。たとえ、何も答えが得られなくても、聞いてもらえるだけで、慰められ、平安が得られる。しかし、全て打ち明けられる友人、親身に話を聞いてくれる友人は多くはない。

しかし、主は、私たちの悩みを聞いて下さる。イエスは、私たちの悩み、苦しみ、悲しみを全て分かって下さるお方。なぜなら、イエスご自身も私たちと同じような経験をされたから(へブ4:15)。ですから、ダビデがヨナタンの元に行って、全ての悩みを打ち明けたように、私たちも主の元に行って、全ての悩みを打ち明けよう。

2.ヨナタンはダビデを執り成す者となった

そこで、ダビデとヨナタンは、サウルの本当の思いを確かめることにした。それは、ダビデが自分の故郷ベツレヘムでの親族の集まりに出るために、サウルとの新月祭の食事を欠席したら、サウルがどう反応をするかというもの (5-7)。「新月祭」とは、月の第一日に神にいけにえをささげる大切な祭り(民28:11-15)。サウルとの新月祭の食事を欠席することは、サウルに対する無礼となる。もし、サウルが寛大な心で受け入れるなら、ダビデは殺されない。しかし、サウルが怒るなら、サウルはダビデを殺そうしている。

ヨナタンは、ダビデの提案を受け入れ、実行することにした。しかし、ヨナタンは、サウルとダビデの関係を修復しようとしたのである。20:32でも、ヨナタンは、命懸けでダビデの無実を訴えている。「なぜ、あの人は殺されなければならなのですか。あの人が何をしたというのですか。」

私たちも、イエスを信じる前、神と敵対関係にあった。神に背を向け、神に従わず、罪自分勝手な歩みをしていた。だから、私たちは、神の怒りと裁きを受け、滅びるべき罪人だった。しかし、何の罪もない神の御子イエスは、私たちの罪をその身に負われ、十字架にかかり、私たちの身代わりに神の裁きを受け死んで下さった。そして、十字架の上で、私たちのために執り成して下さった。(ルカ23:34) イエスは、今もなお、日々、私たちのために執り成して下さっている(ロマ8:34へブ7:25)。

3.ヨナタンはダビデを解放する者となった

新月祭の日、ダビデはサウルとの食事会を欠席し、野原に隠れていた。その二日目、サウルはなぜダビデがいないのかヨナタンに尋ねた。ヨナタンがダビデは家族との会合のため、故郷ベツレヘムへ帰ったことを告げると、サウルは非常に怒り、ヨナタンを罵り、「今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺されなければならない」(31)と命じた。サウルのダビデに対する殺意は決定的なものとなった。

次の日、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデが隠れている野原に出て行き、ダビデに予め決めておいた合図によって、サウルが彼を殺そうとしていることを知らせた。ダビデは隠れていた所から現れ、ヨナタンに近付き、二人で抱き合って泣いた。そして、ヨナタンは、ダビデに「安心して行きなさい」(42)と言って去らせた。ヨナタンは、ダビデを殺そうとするサウルの企てからダビデを解放した。

イエスは、この地上を歩んでおられた時、人々を病や悪霊の支配から解放して下さった。それは、イザ61:1-3の預言の成就であった。イエスは、ナザレの会堂でこの御言葉を引用し、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われた。Cf.ルカ4:16-21。イエスは、私たちを罪と死と悪魔の支配から解放するために、十字架にかかって死んで下さった(へブ2:14,15)。イエスは、私たちを苦しみや問題、罪と死と滅び、サタンの支配から解放して下さる。

 

「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた」(17)ので、ヨナタンは、ダビデの悩みを聞く者、ダビデを執り成す者、ダビデを解放する者となった。イエスも私たちを心から愛し、私たちのために十字架にかかり、命をささげて下さった。そして、私たちの悩みを聞き、私たちのため執り成し、私たちを解放して下さる。今日も、折にかなった助けを得るために、相談者、仲介者、解放者であるイエスを求め、イエスの元に行きましょう。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブ4:16)

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