ヤコブの祭壇3
創世35:1-15
22.7.10.
主は、ヤコブに「祭壇を築きなさい」(1)と語られました。その祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。
1.信仰の原点に立ち返るための祭壇
ヤコブは、ベテルで初めて主に出会い、共におられる主に対する信仰が生まれました。ベテルでの経験は、真の信仰を持つようになった信仰の原点の時だったのです。ベテルに戻って祭壇を築けという主の命令は、ヤコブが初めて主に出会い、主との関係を持った信仰の原点に戻ることだったのです。私たちも、もう一度、信仰の原点、初心に戻りましょう。黙2:4-5。初めの愛、初めの信仰、初めの情熱、初めの決心に戻るのです。
2.自分を聖別するための祭壇
ヤコブは、ラバンの二人の娘レアとラケルと結婚するために14年間働きました。その間にヤコブには、11人の息子と1人の娘が生まれました(29:31-30:24)。さらにヤコブはラバンの下で6年間働き(31:41)、多くの群れを持つようになりました(43)。ある時、主は、ヤコブに「あなたの先祖の国に帰りなさい」(31:3)と語られました。ヤコブがハランを出た時(17-20)、「ラケルは父の所有するテラフィムを盗み出し」(19)ました。「テラフィム」とは、人の形をした偶像で、まじないや霊媒に使われていました。ヤコブがハランに滞在している間に家庭の中に異教の神々が入り込んでいたのです(35:4)。だからヤコブは「異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着換えなさい」と命じたのです。「着物を着換えなさい」とは、「新しい人になりなさい」という意味です。ヤコブ一族は、約束の地カナンに帰る前に、神の民として聖別されなければなりませんでした。ヤコブがベテルで築いた祭壇は、ヤコブたちが神の民として、偶像を捨て去り、自分自身を聖別して、主にささげる(献身)ための祭壇だったのです。私たちの中からも「偶像」を取り除かなければなりません。偶像とは、自分が神以上に愛しているもの、大切にしているものです。例えば、お金、仕事、財産、人、夢や目標、趣味ややりたい事などです。コロ3:5。私たちも偶像となるものを捨て、自分自身を聖別し、主にささげましょう。ロマ12:1-2。
3.感謝をささげるための祭壇
「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」(3)。
① ラバンとの争い(創31:22-55)
「三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼らの後を追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。」(22-23)ラバンは、力づくで娘たちや孫たちや家畜たちを取り戻そうとしたのです(29)。しかし、ラバンがヤコブに会う前の晩、「神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて」、「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われました(24)。主は、ヤコブたちに危害が及ばないように守って下さったのです。
② エサウへの恐れ(創32:1-21)
「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れ」ました(1)。その「神の使いたち」は、神がヤコブを守るために遣わした「神の陣営」(2)だったのです。ですから、ヤコブは、何も恐れる必要はありませんでした。しかしヤコブがエサウに「前もって使者を」(3)送ると、エサウが「四百人を引き連れて」(6)迎えに来ると聞き、「ヤコブは非常に恐れ、心配」(7)しました。「それで彼はいっしょにある人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分け」(7)ました。また、ヤコブは「手もとの物から兄エサウへの贈り物」(13)を用意しました。そして、エサウへの多大な贈り物を幾つかに分け、ヤコブの先に進ませました(13-21)。ヤコブには神に信頼するよりも、まだ自分の知恵や力に頼ろうとする傾向があったのです。
③ 御使いとの格闘(創32:22-32)
ヤコブは家族を連れて「ヤボクの渡し」を渡り(22)、「ひとりだけ、あとに残」(24)りました。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘」(24)しました。それは「御使い」(ホセ12:4)でした。ヤコブは、「御使い」と「格闘」し、自分の力で祝福を勝ち取ろうとしました(26)。しかし、祝福が与えられるためには自我が砕かれ、神に頼る者とならなければなりません。そこで「御使い」は、「ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれ」(25)てしまいました。ヤコブはエサウが襲って来ても、逃げることも、闘うことも出来なくなってしまいました。ヤコブは、自分の力に頼れなくなり、全面的に神に寄り頼む者となったのです。この時、ヤコブの名前は、「イスラエル」(神は戦う)に変えられました。ヤコブは、「押し退ける者」から、「神に戦っていただく者」に変えられたのです。その後、「太陽は彼の上に上った」(31)とあり、ヤコブの新しい出発を表わしています。
④ エサウとの再会(創33:1-4)
ついにヤコブは、「エサウが四百人の者を引き連れてやって」(1)来るのを見ました。しかし、れまでのヤコブとは違っていました。ヤコブは、「彼らの先に立って進んだ」(3)のです。
ヤコブは、前夜のペヌエルでの経験を通して変えられていたのです。ヤコブは「兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎを」(3)しました。すると、エサウの方からヤコブを「迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけ」(4)しました。そして、「ふたりは泣」(4)きました。放蕩息子と父の再会のような、感動的な再会と和解でした。この後、ヤコブたちは、「シェケム」の町の手前に滞在するようになりました(18)。しかし、ヤコブたちは、カナン人の憎まれ、シェケムに居られなくなりました(34章)。そして、ヤコブは、ベテルに行き、祭壇を築いたのです(35:7)。
ヤコブはラバンに騙され、苦しい中を通りましたが、神に守られました。ヤコブは、「神は、彼が私に害を加えるようにされなかった」(31:7)と言っています。そして、兄エサウとも無事に和解することが出来ました。ですから、ベテルに祭壇を築くということは、主への感謝を表すことでした。私たちも、これまでの数々の主の恵みを覚え、またこれからの主の約束を覚え、主に感謝の祈りをささげましょう。詩103:1-5。
Filed under: 伊藤正登牧師