ヤコブの祭壇

創世35:1-15

22.6.12.

主は、ヤコブに「祭壇を築きなさい」(1)と語りかけておられます。その祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。

1.信仰の原点に立ち返るための祭壇

主は「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」(35:1)と言われました。ヤコブが築いた祭壇にどのような意味があったかを知るためには、ヤコブがどのような人生を歩んだか知らなければなりません。

① ヤコブの生い立ち(創25:20-28)

ヤコブは、イサクとリベカに生まれた双子の兄弟の弟でした。兄は、エサウでした(24-26)。やがて「エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んで」(27)いました。エサウは、狩りのために、野山を駆け巡る野性的な人でした。「イサクはエサウを愛して」いました。「猟の獲物を好んでいたから」です(28)。ヤコブは、穏やかな性格で、いつも天幕で母リベカと一緒にいたのでしょう。「リベカはヤコブを愛して」いました(28)。

② 長子の権利を奪う(創25:29-34)

ある時「ヤコブが煮物を似ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って」(29)来ました。エサウは、ヤコブにその煮物を「食べさせてくれ」(30)と頼みました。するとヤコブは、煮物と引き換えに「長子の権利」(31)を売り渡すようにと言いました。飢え疲れていたエサウは、「長子の権利など、今の私に何になろう」(32)と言って、「長子の権利をヤコブに売っ」(33)てしまったのです。34節には、「エサウは長子の権利を軽蔑したのである」とあります。

「長子の権利」は、父の財産を他の兄弟の二倍受けるという権利でした(申命26:17)。特に、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐという大切な意味のあることでした。しかし、エサウは、野蛮な性格で、将来の祝福、霊的な事について全く考えず、ただ目先(現在)の事、この世の事、物質的肉的な事しか考えない人でした。そこで、エサウは、「長子の権利」を軽んじて、自分の腹を満たすことを選んだのです。ヘブ12:16には「…一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」と言われています。一方、ヤコブは、「長子の権利」の重要性を知っていました。

③ 祝福を奪う(創27:1-40)

「イサクは年をとり、視力が衰え」(1)、死を予期し(2)、エサウを祝福しようとしました。そこで、イサクは、エサウに「獲物をしとめて来て」(3)、「私の好きなおいしい料理を作り、…食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために」(4)と言いました。リベカは、イサクがエサウを祝福しようとしていることを盗み聞きし、イサクを騙して、ヤコブを祝福させる計画を立てました(9-10)。ヤコブは、父イサクを騙すことに恐れと戸惑いを感じましたが、母リベカに従いました。ヤコブは、エサウに変装し、盲目のイサクに自分はエサウであると偽り、リベカが作った料理を持って行き、自分を祝福してくれるように頼みました。すっかり騙されてしまったイサクは、ヤコブを祝福してしまいました(27-29)。こうして、ヤコブは、イサクを騙し、エサウから祝福を横取りしてしまったのです。

ヤコブが祝福されるということは、初めから神のご計画でした(創25:23) だから、神の時が来たら、神の方法で、平安の内にヤコブに祝福が与えられたでしょう。しかし、リベカとヤコブは、神の時を待つことが出来ず、神の方法に委ねらず、自分の知恵や力で神の祝福を得ようとしたのです。これは、もはや神を信頼する信仰ではなく、人間の力に頼った信仰です。このような欺きによる方法は、神の御心ではありませんでした。

後に自分の蒔いた種を刈り取ることになります。この後、ヤコブは、家を出て、荒野を孤独に旅しなければなりませんでした。そして、二度と母リベカと会うことはありませんでした。また、今度は自分が欺かれて、20年間の労働を強いられました(創31:40-41)。こうして、ヤコブには、生涯、欺きに伴う様々な苦悩が起こることになりました。

④ ハランへの逃避(創27:41-28:5)とベテルでの主の現れ(創28:10-22)

エサウは、ヤコブが祝福を奪ったことを知り、怒り、ヤコブに殺意を抱きました(27:41)。それを知ったリベカは、ヤコブを彼女の兄ラバンのもとへ逃がしました(27:43 28:5)。「ある所に着いた時」、ヤコブは「石」を「枕にして」野宿しました(11)。やがて、ヤコブは、天からの「はしご」を御使いが上り下りしている夢を見ました(12)。そして、主は、ヤコブを祝福して子孫を増え広がらせ、ヤコブと共にいて下さり、ヤコブを守り、再びカナンの地に連れ戻して下さると約束して下さいました(13-15)。ヤコブは目覚め、この夢に大いに励まされ、「主がこの所におられる」(16)、「こここそ神の家」(17)であると言い、枕にしていた石を立てて、油を注ぎ(18)、その場所を「ベテル」(19)と呼びました。

その時から20年が経ち、主はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」と語られたのです。ベテルで主に出会うまでは、ヤコブにとって、主はアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、このベテルでの経験を通して、主はヤコブ自身の神となられたのです。それは、ヤコブにとって、真の信仰を持つようになった信仰の原点の時だったのです。そのベテルに戻って祭壇を築けという主の命令は、ヤコブが初めて主と出会い、主との関係を持った信仰の原点に戻ることでした。

 

私たちも、自分のベテルに戻って、主のために祭壇を築きましょう。それは、もう一度、信仰の原点、初心に戻るということです。黙2:4-5。すなわち、初めの愛、初めの信仰、初めの情熱、初めの決心に戻るということです。

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