神よりも人を恐れたサウル王

Ⅰサムエル13,15章

22.11.20.

聖書の中で、繰り返し「神を恐れよ」と命じられています。「神を恐れる」ということは、「神を怖がる」ことではありません。「神を恐れる」とは、「神に対して畏敬の念を抱く」ということです。具体的には…。

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神を恐れよ(2)

申命10:12-13

22.11.13.

聖書の中で、繰り返し命じられていることの一つは「神を恐れよ」です。「恐れる」という言葉には、「怖がる」(fear)という意味があります。しかし、「神を恐れる」ということは、「神を怖がる」ことではありません。「神を恐れる」ということは、「神に対して畏敬の念を抱く」ということです。では、「神を恐れる」ということは、具体的にどのようなことなのでしょう。

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神を恐れよ

伝道者12:13-14

22.11.6.

聖書の中で、繰り返し命じられていることの一つは「神を恐れよ」です。「神を恐れる」とは、どういうことなのでしょう。

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ベエル・シェバで神と出会ったイサク

創世記26:12-25

221023

私たちの周りには、優しく善良な人たちばかりとは限りません。時には、誰かに争いをしかけられたり、敵意を向けられたりするかもしれません。イサクは豊かになると、ペリシテ人たちに妬まれ、敵意を向けられました。このときイサクはどう対処したのでしょうか。御言葉から学びましょう。

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イエスにとどまり実を結ぶ(6)

ヨハネ15:1-10

22.10.16.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

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イエスにとどまり実を結ぶ(5)

ヨハネ15:4-10

22.10.9.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

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イエスにとどまり実を結ぶ(4)

ヨハネ15:4-10

22.10.2.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

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ゲラルに滞在したイサク

創世記26:1-12

220925

今はコロナ禍により、多くの人が収入が減ったり、仕事を失ったり、物価が高くなったりして食べ物もないほど生活が苦しくなっています。イサクの時代にも飢饉がありました。そのとき、イサクはどうしたのでしょう。神の御言葉から学びましょう。

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イエスにとどまり実を結ぶ(3)

ヨハネ15:4-10

22.9.18.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

 

〈前回からの続き〉

 

5.イエスの愛にとどまる

イエスは、ぶどうの木の例え話の文脈の中で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハ15:9)と語られました。イエスにとどまるとは、イエスの「愛の中に」とどまるということでもあるのです。そして、イエスの「愛の中に」とどまるとは、「戒めを守る」(10)ことです。イエスの「戒め」とは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」です(121713:34)。ですから、イエスの「愛の中に」とどまるということは、「互いに愛し合う」ということです。私たちが「互いに愛し合う」ことによって、イエスの「愛にとどまる」ことが出来るのです。イエスが私たちを愛して下さったように、互いに愛し合うとは、どういうことでしょうか。

① 自分の方から愛する

神は、私たちがまだ神を知らず、神を信じず、神に背いていた時、自己中心的な、罪深い生き方をしていたにも関わらず、私たちを愛して下さいました。そして、私たちを救うためにイエスを遣わして下さったのです(ロマ5:6-8Ⅰヨハ4:10)。イエスは、私たち罪人を救うために、十字架にかかり、命を捨てて下さいました。それによって、私たちに対する最大の愛を示して下さったのです(13)。

そのように、私たちも、自分の方から愛していくのです。相手が動き出すまで待っているのではなく、自分の方から行動を起こすのです。感情によってではなく、意志を働かせることによって、信仰によって愛するのです。最初は、いやいやながらかもしれませんが、そのうちに愛を感じるようになります。自分の感情に焦点を当てている限り、いつまで経っても愛は生まれません。

② 聖霊によって神の愛に満たされる

問題は、私たち人間には、愛がないということです。愛は、聖書よく学んだり、努力することによって持てるというわけではありません。愛は、神から与えられるものなのです(Ⅰヨハ4:7-8)。聖霊は、私たちの心に神の愛を注いで下さるいます(ロマ5:5)。ですから、私たちが神の愛に満たされるためには、聖霊の満たしが必要です。賛美や祈りの中で、主の臨在の中に入ることが出来ます。そして、主の臨在の中で、聖霊との親しい交わりを持つことが出来ます。さらに、聖霊との親しい交わりの中で、神の大きな愛に包まれることが出来るのです。このように、愛とは、単に感情的なものではなく、霊的なこと、超自然的なことなのです。

日々聖霊との親しい交わりによって、神の愛に満たされますが、私たちの心がこの世のことに奪われている時、また忙しさのために主との交わりが持てない時、神の愛が感じられなくなります。そして、何の喜びも感謝も感じられなくなり、形式的、表面的、律法的な信仰生活に陥ってしまいます。ですから、どのような時にも、主の臨在と聖霊の満たしを求めることが必要です。

 

イエスは「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハ15:9)と語られました。そして、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(10)と語られました。イエスの「戒め」とは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」なのです(12)。

「互いに愛し合うこと」ということは、一人では出来ないことであり、相手を必要とします。その相手は、必ずしも自分の好きな人、親しい人ばかりではありません。親切で、優しい人たち、良い人たちを愛するのは簡単です。そういう人たちに対しては、特別に愛を働かせる必要はありません。自然と愛せます。しかし、私たちの周りには、そのような愛し易い人ばかりではありません。自分にとって苦手なタイプの人、愛しにくい人もいます。それどころか、悪口を言ったり、意地悪をするような人もいるでしょう。しかし、イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言われました(ルカ6:27)。神は、私たちに愛するということを学ばせるために、敢えて私たちの周りに愛しにくい人々を置かれることがあります。これは、特に教会において、実践され、訓練されるものなのです。「教会」は、ギリシャ語で「エクレシア」と言い、「召し集められた者」という意味です。教会には、主によって召し集められた様々な人々がいます。自分とは考え方、感じ方が違う人々、タイプの違う人々、合わない人々がいるでしょう。その中で、「互いに愛し合うこと」を学び、訓練され、実践されるのです。Cf.コロ3:13-14

イエスの「愛の中に」とどまることは、「互いに愛し合うこと」によってなされます。そして、他の人を愛する人は、霊的にも、人格的にも成長し、「多くの実」を結ぶのです。神の愛が注がれるために、主の臨在を求め、聖霊との親しい交わりを持ちましょう。そして、「互いに愛し合い」、イエスの「愛の中に」とどまり、「多くの実」を結ぶ者とならせていただきましょう。Cf.Ⅰヨハ3:21-24

イエスにとどまり実を結ぶ(2)

ヨハネ15:4-8

22.9.11.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

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