ペテロの再献身

ヨハネ21:1-23

24.4.7.

イエスが復活した後、ペテロは他の弟子たちと共にティベリヤ(ガリラヤ)湖に行きました。そしてここで、イエスはペテロを再献身へと導いたのです。

1.イエスはやり直させて下さる

弟子たちは、一晩中漁をしていましたが、魚は全く捕れませんでした。夜明け頃、イエスは岸部に立ち、弟子たちに「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれば、とれます」(6)と言われました。その通りにすると、網を引き揚げられないほどの大量の魚が捕れたのです。

その時、ヨハネがイエスであることに気付き、ペテロに「主です」(7)と伝えました。すると、ペテロは、「上着をまとって、湖に飛び込」(7)み、イエスの元に向かいました。岸に着くと、弟子たちはイエスが用意していたパンと魚を食べました。

食事が終わると、イエスはペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(15)と問いかけました。ペテロは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」(15)と答えました。この後にも、イエスはペテロに「あなたはわたしを愛しますか」(16,17)と2度尋ねました。ペテロは、イエスが3度も同じ質問を繰り返されたので、「心を痛め」(17)てしまいました。最後の晩餐の席で、ペテロは、イエスのためなら死も覚悟すると告白しました(ルカ22:33)。しかしイエスは、ペテロに「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(ルカ22:34)と言われました。

実際に、イエスが捕らえられると、ペテロはイエスを追って、大祭司の家まで行きました。そして、中庭で人々と焚火に当たりながら、遠くからイエスの取り調べを見ていました。その時、ペテロは、周りの人たちから3度、イエスの弟子であることを指摘されました。それに対して、ペテロは、3度、否定してしまったのです(ルカ22:54-62)。ですから、ペテロは、イエスから「あなたはわたしを愛しますか」と3度も問われた時、ペテロは3度もイエスを否定したことを思い出し、とても心が痛んだのです。しかし、イエスはペテロを責めたのでなく、3度イエスを「知らない」と言ったペテロに、3度イエスに「愛します」と告白する機会を与えて下さったのです。

2.イエスは愛を求めておられる

イエスがペテロに問い掛けられたのは、「忠実にわたしに従い仕えますか」ではなく、「わたしを愛しますか」というイエスに対する愛についてだけでした。以前のペテロでなら、自信をもって「はい。主よ。勿論です」と答えたことでしょう。しかし3度とも「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。

この時、イエスが1度目と2度目に「愛しますか」と問われた言葉には、ギリシヤ語の「アガペー」の動詞形の「アガパオー」が使われていました。「アガペー」は、「一方的な愛、無条件の愛、無償の愛、神の愛」を表します。イエスは、ペテロに「何があっても、あなたは私を愛しますか」と問い掛けたのです。

それに対して、ペテロが「私があなたを愛することは」の「愛する」という言葉は、ギリシヤ語の「フィリア」の動詞形である「フィレオー」でした。「フィリア」は、友情の愛で、相手の愛に応答する愛と言うことも出来ます。イエスからの「アガパオー」の問い掛けに対して、ペテロが「フィレオー」で答えたのは、自分の内にはイエスに対するアガペーの愛がないということを知ったからです。ペテロは、「イエスが愛して下さるから、イエスを愛せるのです」と言っているのです。

イエスが3度目にペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と問われた時は、「アガパオー」ではなく「フィレオー」が用いられました。すなわち、イエスは「私があなたを愛するから、私を愛するのですね」と言われたのです。イエスに対する私たちの愛が完璧な愛ではなかったとしても、イエスは、私たちにご自身に対する愛を問い掛けておられるのです。私たちが主を愛する前に、主が私たちを愛して下さったのです(ロマ5:6-8Ⅰヨハ4:9-10)。

3.イエスは働きを委ねられる

ペテロが3度「愛します」と答えた後、イエスはそれぞれ言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」。これらは、イエスを「信じる者たちの群れ、教会を牧するように」という意味です。イエスは、ペテロに教会を任せ、信者の群れを養い導くようにと言われたのです。

しかし、ペテロは、かつてイエスを否定してしまうという大きな失敗を犯しました。本来ならば、信用がなく、大きな仕事を任せることなど出来ません。しかし、そんなペテロに対し、イエスは、大きな仕事を任されたのです。ペテロが立ち直るためには、イエスの赦しと愛だけではなく、イエスの信頼も必要でした。イエスは、自信を失っていたペテロに、改めて使命と任務を委ねられたのです。最後の晩餐の席でも、イエスはペテロの裏切りを予告しましたが、ペテロの失敗にではなく、ペテロの将来に目を向けておられたのです(ルカ22:31-32)。イエスは、やがてペテロが大きな役割を果たすようになるということを見ていたのです。

ペテロは、「イエスに愛された弟子」(20)あるヨハネに目が向きました。ペテロは、ヨハネのことが気になり、「主よ。この人はどうですか」(21)と尋ねました。それに対して、イエスは「それがあなたに何のかかわりがありますか」と言い、再び「あなたは、わたしに従いなさい」と語られました(22)。ヨハネにはヨハネの使命と務めがあり、ペテロにはペテロの使命と務めがあるのだから、ペテロは自分の使命と務めに励むようにということです。人はそれぞれ、主から委ねられた働きが違います。人がどうであっても、自分が主に従うということが大切なのです。

 

この後、立ち直ったペテロは、全力で福音を伝え、教会を導きました。そして、ネロ皇帝の時代、ローマで捕らえられ、殉教したと言われています。ペテロは、死に至るまでも、主に従い仕え続けたのです。弱く、無力で、愚かで、失敗するような私たちをも、主は立ち直らせ、主の働きのために用いて下さいます。ペテロのように、主の招きに応答し、主を愛し、主に従い、主に仕えていきましょう。

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