ナルドの香油をささげたマリヤ
マルコ14:1-9
24.5.12.
イエスにナルドの香油をささげた女がいました。この女を通して、主に仕えるということがどのようなことなのかを学びたい。
1.自分に出来る最高のものをささげる
「過越しの祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていた」(1)時、すなわち、イエスが十字架にかかる2日前の出来事であった。「イエスがベタニヤで、ツァラアトに侵された人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」(3) この「ひとりの女」とは、ヨハ12:3によると、ラザロとマルタの姉妹「マリヤ」だった。ヨハネによると、マリヤはその香油を「イエスの足」にも塗った。
「すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」」(4-5) 新改訳聖書のヨハ12:5の注によると、「約十ヶ月分の生活費に相当する金額」だった。1デナリが労働者の1日分の報酬と言われているので、三百日分の労働報酬に相当する。それを一瞬の内に全て注ぎ出してしまったということは、人間的には無駄なことに思えた。
その場にいた人たちはマリヤを責めたが、イエスはマリヤを責めず賞賛した。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(6) マリヤは、価値のないどうでも良い物ではなく、イエスに最高のものをささげたかった。また、惜しみながら、少しだけささげるのではなく、大胆に「そのつぼを割り」、「非常に高価なナルド油」全てをイエスに注いだのであった。大切なことは、自分の出来る最善、精一杯をささげるということ。イエスは「この女は、自分にできることをしたのです。」(8)と言われた。私たちも、自分に出来る最高のものを精一杯ささげよう。
2.イエスへの純粋な愛をもってささげる
マリヤが「純粋で、非常に高価なナルド油」をイエスに注いだ動機は、義務感からではなく、強制されたからでもなく、人に見せるためでもなく、報いを求めるためでもなく、ただ純粋にイエスを愛していたからであった。イエスに対する愛が、イエスへの最高のささげものという形になった。
なぜ、マリヤは、そんなにイエスを愛していたのか具体的な理由は明らかにされていない。ルカ7:36-50には、このマリヤによるナルド油の注ぎと似た話がある。一人の「罪深い女」がやって来て、「香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」(ルカ7:37-38) 「罪深い女」とは、「不道徳な女」という意味。この女は遊女であって、罪に汚れた生き方をする女であったのかもしれない。しかし、イエスは、この女について、次のように言われた。「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』といいます。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししかあいしません。」(ルカ7:47) 彼女は、イエスに多くの罪を赦していただいたので、イエスを心から愛していたのだろう。
マリヤもイエスが愛と恵みに溢れたお方であることを知っていただろう。それがイエスへの愛となり、最高のささげものとなって表れたのであった。イエスは、私たちをも愛し、私たちを救うために、十字架にかかり死んで下さった。それによって、私たちに対する愛を示して下さった(ロマ5:8)。私たちも、義務感やいやいやながらではなく、惜しみながらでもなく、主への純粋な愛を動機にして、主にささげ、主に仕えよう。
3.機会をとらえてささげる
イエスは言われた。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」(7) 貧しい人々に施しをしようと思えば、これからいつでも出来るが、イエスが地上を去る時が近づいていた。マリヤがイエスへの愛を表すことができるのは、この時しかなかった。もしこの機会を逃してしまったなら、永遠にイエスに油を注ぐことは出来なかっただろう。しかし、マリヤは、その機会を逃さなかった。
イエスは、マリヤがしてくれたことについて、「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(8)と語られた。この2日後、イエスは、十字架にかかって死なれる。マリヤがイエスの死をどの程度理解していたかは分からない。マリヤはイエスの話によく耳を傾けていたので、イエスの死を感じていたかもしれない。結果的に、マリヤのささげ物は、イエスの埋葬の用意となった。マリヤは、機会をとらえて、イエスに対する愛を余す所なく示した。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道3:1) その時でしか出来ないささげものや奉仕がある。様々な言い訳を言って、ささげることを遅らせ、ささげる機会を失わないようにしょう。常に主を愛し、主にささげ、主に仕えようとしている人は、その機会をとらえる。Cf.エペ4:27。5:16。コロ4:5。
ヨハ12:3には、「家は香油のかおりでいっぱいになった」とある。主に対するささげものや奉仕は、必ず他の人にも祝福となって流れていく。そして、マリヤがイエスにしたことは、忘れられることなく、世界中で覚えられる(9)。人間的には、主へのささげものや奉仕は、無駄なことをしているように見えるが、主にあっては、決して無駄になることはない。主は必ず報いて下さる。ヨハ12:26。ロマ2:6。マリヤのように、イエスを愛し、最高のものを、機会をとらえささげよう。Ⅰコリ15:58。
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