ダビデの祭壇(2)
Ⅰ歴代21:1-27
22.8.21.
「ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげて、主に呼ばわった」(26)とあります。ダビデが築いた祭壇から、どのようなことが教えられるのでしょうか。
前回の復習
ダビデは、オルナンに「私に打ち場の地所を下さい。そこに主のために祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に下さい」(22)と言いました。すると、オルナンは「すべて」(23)を無料で提供することを申し出ました。しかし、ダビデは、オルナンの申し出を断りました(24)。人からタダでもらったものをささげても、それは自分のささげものとはなりません。自分のささげものは、自分が代価すなわち犠牲を払わなければならないのです。
礼拝も、神へのささげものですから、礼拝には犠牲が伴います。たとえば、礼拝するためには、時間、労力、交通費、仕事、やりたいこと等をいけにえ(犠牲)としてささげなければなりません。勿論、礼拝で歌われる賛美も献金も、神へのいけにえ(犠牲)、ささげものです。
そして、何よりもいけにえとして、ささげなければならなのは、自分自身です(ロマ12:1)。実は、礼拝での賛美も、献金も、また礼拝を守ることに伴う全ての犠牲は、自分自身を神にささげることの表れなのです。すなわち、献身であると言えます。ダビデは土地を買い、祭壇を築き「全焼のいけにえ」(26)をささげました。「全焼のいけにえ」は、神への全き献身を表わすものだったのです。
1.エブス人オルナンの打ち場に築いた祭壇
「エブス」とは、「エルサレム」のことです(ヨシ15:63。Ⅱサム5:6)。この後、ダビデは、自分が買い取った「エブス人オルナンの打ち場」を「主の宮」すなわち神殿を建てる場所に指定しました(Ⅰ歴22:1)。ダビデの息子ソロモンは、「エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの示した所に」、「主の家」すなわち神殿を建てました(Ⅱ歴3:1)。その場所は、アブラハムがイサクををささげた「モリヤ山上」でもあったのです(創22:2)。
BC20世紀頃、アブラハムが最愛の一人息子イサクを「全焼のいけにえ」としてささげようとした「モリヤ山上」は、BC10世紀頃、ダビデが祭壇を築いて「全焼のいけにえ」をささげた「エブス人オルナンの打ち場」であり、ソロモンが神殿を建て、祭壇を築いて全焼のいけにえをささげた「エルサレム」なのです。これらは、全て一直線につながっていて、一つの非常に重要なことを示していました。それは、父なる神が最愛のひとり子イエス・キリストの命を十字架の上でささげたということです。
アブラハムが「モリヤ」に祭壇を築きイサクを「全焼のいけにえ」としてささげたように、ダビデが「オルナンの打ち場」に祭壇を築き「全焼のいけにえ」をささげたように、ソロモンが「エルサレム」に神殿を建て、その祭壇で「全焼のいけにえ」をささげたように、父なる神は、「エルサレム」神殿の近くの「ゴルゴタ」(マコ15:22)の丘で、ご自分の最愛のひとり子イエス・キリストの命を十字架の上でささげたのです。このように、全ては、キリストの十字架に繋がるものでした。父なる神が御子をささげて下さったのは、私たちを罪と死と滅びから救うためでした。そして、それは、私たちに対する神の愛の現れであったのです(ヨハ3:16。Ⅰヨ4:9-10)。
2.全焼のいけにえと和解のいけにえ
祭壇は十字架を予表し、「いけにえ」はキリストを予表するものでした。「全焼のいけにえ」とは、いけにえの動物を殺して、丸焼きにすることです。それは、神への全き献身を表わすものでした。しかし、「全焼のいけにえ」には、「神の怒りを取り除く」という意味もありました。ですから、レビ1:9には、「全焼のいけにえ」について、「主へのなだめのかおりの火によるささげ物である」と書かれています。「なだめる」とは、怒りを和らげ、静めるという意味です。聖書において、最初に「全焼のいけにえ」をささげたのは、ノアです(創8:20)。そして、「主は、そのなだめのかおりをかがれ」(創8:21)、その怒りを静め、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい」と決意されたのです。キリストは、ご自身を「全焼のいけにえ」としてささげ、十字架にかかり死なれ、「なだめの供え物」となって(Ⅰヨ4:10)、私たちに対する神の怒りを静め、私たちを死と滅びから救い出して下さったのです。「全焼のいけにえ」は、十字架にかかり死んで下さったキリストの予表だったのです。
また、ダビデは、祭壇の上で「和解のいけにえ」もささげました。「和解」とは、神との和解であって、神との平和の回復のことです。ですから、「和解のいけにえ」は、神との和解、神との平和を表します。「和解のいけにえ」は、「感謝のいけにえ」とも訳されることがあります。レビ7:11-12には、「和解のいけにえ」を「感謝のためにささげる」とあります。
「和解のいけにえ」は、神の恵みに対して、感謝を表すいけにえだったのです。「和解のいけにえ」は、「罪のためのいけにえ」がささげられた後にささげられました。罪が赦されたことによって、神と和解し、神との平和が回復するからです。ですから、ダビデも祭壇で「全焼のいけにえと和解のいけにえ」をささげたのです。「和解のいけにえ」も、十字架にかかり死んで下さったキリストの予表だったのです(ロマ5:1、10-11)。
天からの火によって、ダビデの祈りが神に受け入れられたことが示され(26-27)、イスラエルは滅ぼされることなく、救われました。ダビデは、イスラエルの民を赦して欲しいと、執り成し祈りました(17)。このダビデの執り成しの祈りは、民のために執り成す祭司の祈りであったと言えます。そして、その祈りは、イエスの十字架上での執り成しの祈りに繋がるものでした。私たちも、滅びに向かっている人々のために執り成し祈りましょう。
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