ダビデの祭壇(1)
Ⅰ歴代21:1-27
22.8.14.
主の使いは、先見者(預言者)ガドを通して、ダビデに「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない」(18)と語りました。ダビデは主に語られ通り「主のために祭壇を築き」(26)ました。ダビデが築いた祭壇から、どのようなことが教えられるのでしょうか。
1.ダビデが犯した過ち
ダビデが祭壇を築くようになった経緯からみてみましょう。
① ダビデの罪(1-6)
1節に「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」とあります。サタンは、神に敵対し、神が愛するご自身の民イスラエルを憎み、滅ぼそうとしています。この時も、サタンは、イスラエルに立ち向かい、イスラエルを滅ぼすために、ダビデを誘惑して、「イスラエルの人口を数えさせ」ました。
しかし、イスラエルの人口を調べることは、「神のみこころ」を損なうことでした(7)。ダビデは、人口を調べることによって、どれだけ税金が得られるのか、どれだけ兵士を集めることが出来るのか知りたかったのです。つまり、イスラエルの経済力と軍事力、すなわちイスラエルの国力が知りたかったのです。ダビデは、目に見えない神に信頼するよりも、目に見える富と力に頼ろうとしたのです。
また、ダビデは、これまで努力して来た自分の成果がどれだけか知りたかったのです。ダビデの心には、国の指導者として、国力を知りたいという思いがありました。そこにサタンが働き、ダビデを誘惑して、イスラエルの人口調査をさせたのです。
② ダビデの悔い改め(7-17)
14節には、「すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万人の人が倒れた」とあります。(「疫病」とは伝染病のこと) さらに15節には「神はエルサレムに御使いを遣わして、これを滅ぼそうとされた」とあります。しかし、主は、エルサレムに「わざわいを下すことを思い直し、滅ぼしている御使いに仰せられ」ました。「もう十分だ。あなたの手を引け。」 そして、「主の使いは、エブス人オルナンの打ち場のかたわらに立っていた」とあります。
「エブス」とは、「エルサレム」のことです(ヨシ15:8,63、Ⅱサム5:6)。また、この場所は、アブラハムがイサクをささげたモリヤの山でもありました(Ⅱ歴3:1)。「打ち場」は、神の裁きを象徴するもので、「打ち場」で麦と殻が分けられるように、神の裁きにおいて善人と悪人が分けられます(マタ3:12)。つまり、「エブス人オルナンの打ち場」とは、神の裁きが行われる場所であったのです。
ダビデは、自分の罪に気付き、それを認め、主に告白し、赦しを求めました。ダビデは、イスラエルの民を赦して欲しいと、執り成しました(17)。このダビデの執り成しの祈りは、民のために執り成す祭司の祈りであったと言えます。そして、その祈りは、イエスの十字架上での執り成しの祈りに繋がるものでした。
2.礼拝にはいけにえ(犠牲)が伴う(18-27)
主は、ダビデの祈りに答え、ガドを通して、ダビデに「エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない」(18)と語られました。そこで、「ダビデは、ガドが主の御名によって語ったことばに従って」(19)、「エブス人オルナンの打ち場」へと向かって行きました。オルナンはダビデを見ると、「地にひれ伏して、ダビデに礼を」(21)しました。ダビデはオルナンに「私に打ち場の地所を下さい。そこに主のために祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に下さい」(22)と言いました。しかし、オルナンはダビデ「どうぞ、お取りになってお気に召すようになさってください。ご覧ください。私は、全焼のいけにえのための牛、たきぎにできる打穀機、穀物のささげ物のための小麦を差し上げます。すべて差し上げます」(23)と言いました。それに対して、ダビデは「いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです」(24)と答えました。
ダビデは、オルナンのいけにえ(犠牲)ではなく、自分のいけにえ(犠牲)をささげたかったのです。人からタダでもらったものをささげても、それは自分のささげものとはなりません。自分のささげものは、自分が代価すなわち犠牲を払わなければならないのです。ささげものには、犠牲が伴うものなのです。
礼拝も、神へのささげものです。ですから、礼拝にも犠牲が伴います。たとえば、神を礼拝するためには、時間、労力、交通費、仕事、家族や友人、やりたいこと等をいけにえ(犠牲)としてささげなければなりません。これらは、神を礼拝するための犠牲であり、神へのささげものと言えます。また、礼拝で歌われる賛美も、神への「賛美のいけにえ」、ささげものです(ヘブ13:15)。献金も、神へのいけにえ(犠牲)、ささげものであり、礼拝の一部なのです。Cf.出34:20,26
そして、何よりもささげなければならなのは、自分自身なのです(ロマ12:1)。礼拝とは、自分自身を「生きた供え物として」神にささげることです。礼拝での賛美も、献金も、また礼拝を守ることに伴う全ての犠牲は、自分自身を神にささげることの表れなのです。神のために犠牲が払われることによって、神への服従、献身が示されるのです。
ダビデは十分な代価を払って土地を買い、祭壇を築きました。そして、「全焼のいけにえと和解のいけにえ」(26)を神にささげました。「全焼のいけにえ」は、いけにえの動物を殺して、丸焼きにすることです。それは、神への全き献身を表わすものだったのです。
「主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられた。」(26) 主は、ダビデの祈りに答え、イスラエルから疫病を取り除いて下さいました。まず、自分自身を「生きた供え物として」神にささげましょう。そして、自分自身をささげる表れとして、賛美も、献金も、また礼拝を守ることに伴う全ての犠牲も喜んでささげていきましょう。
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