サムエルの成長と祭司エリの息子たちの堕落

Ⅰサムエル2章

23.1.15.

2章には、ハンナの祈りと、祭司エリと彼の息子たちの堕落について、また少年サムエルどのように育ったか記されています。特に神を尊んだハンナとサムエルと、神をさげすんだエリと息子たち対比されています。

1.神を尊んだハンナとサムエル

2:1-10 は、「ハンナの賛歌」です。Cf.マリヤの賛歌(マグニフィカト)ルカ1:46-55ハンナは、が彼女の祈り答え不妊の彼女男の子与えて下さったことを、喜び勝利の気持ちに満たされ神をほめたたえています。ハンナは、弱い者強くし、貧しい者富む者とし、へりくだった者高めて下さる方であるとたたえています。

 

ハンナは、サムエルを「乳離れするまで」(1:23)自分育てました(1:21-23)。まだ子どもがいない時、「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」(1:11)と約束していました。その約束通りハンナは、サムエルが「乳離れしたとき」、サムエルささげるため、「シロの主の宮に連れて行った」のです(1:24)。しかし、ハンナは、神との約束守りました神を尊んだのです。

こうして、少年サムエルは、祭司エリ預けられました。11節に「幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた」とあります。サムエルは幼くして神に仕える者として育てられていったのです。18節には「サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、の前に仕えていた」とあります。「エポデ」とは、祭司が身に着ける装束の一つです。まだ幼いサムエルは、子ども用の「エポデ」を身に着けて、主の宮で、祭司エリ助手として、幕屋での奉仕手伝いをしていたのでしょう。サムエルは、幼い頃から、聖別されて、祭司として仕えていたのです。

21節には「少年サムエルは、主のみもとで成長した」とあります。「主のみもとで」は、NIVでは「in the presence of the Lord」となっています。つまり、「主の臨在の中で」という意味です。サムエルは、主の臨在の中で、成長しました。サムエルは、幼い頃から、主の臨在感じ体験していました。サムエルは、単に知識として知っていたのではなく体験的知っていたのです。26節には「少年サムエルはますます成長し、にも、人にも愛された」とあります。この表現は、少年時代イエスにも使われています。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52) サムエルは、単に成長していっただけではなく神にも人にも愛される者となっていきました。

2神を尊ばなかったエリと息子たち

サムエルとは対照的だったのが、祭司エリ二人の息子たち、ホフニピネハスです。12,13節には、「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった」とあります。「よこしまな者」とは、「正しくない者正しい道から外れている者」です。新共同訳では「ならず者」とあります。ホフニピネハスは、非常な悪人でした。また、「主を知らず」は、口語訳では、「主を恐れなかった」と訳されています。彼らは、主を畏れ敬わない者主を信じず主に従わない者であったのです。ですから、彼らは、「民にかかわる祭司の定め」も正しく守り行いませんでした。

ホフニピネハスは、主へのささげもの侮りました(13-17)。例えば、人々いけにえささげるために来ると、そのをまだ煮ている間に、ホフニピネハスが来て、その肉刺しで刺して横取りしていました。また、いけにえの脂肪は、焼き尽くしにし、に上らせ、ささげました脂肪は、主のものであるとレビ3:3-5に書かれているからです。いけにえささげられた後祭司たちにも分け前与えられましたが、ホフニピネハスは、それでは満足しませんでした。生のまま力ずくで奪いました。こうして、彼らは、いけにえささげられる前に、最上の部分横取りしていたのです。ですから、「子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである」(16)と言われています。また、ホフニピネハスは、主の宮で「仕えている女たち」と姦淫を犯しました(22)。

エリは「自分の息子たちが…行っていることの一部始終」(22)を聞いて知っていました。ある時、エリは、ホフニピネハスに言いました。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。…子たちよ。そういうことをしてはいけない。…人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」(23-25) しかし、ホフニピネハスは「父の言うことを聞こうとしなかった」(25)のです。この時、「エリは非常に年をとって」(22)いて、息子たちかの年齢高かったのでしょう。ホフニピネハスには、もう聞く耳がなく、悔い改める心ありませんでした。その後、「神の人」(27)すなわち預言者がやって来て、神の言葉エリ伝え(28)、息子たちは「どうして罪を犯すのか」と責めました(29)。には、子どもたちに神を恐れ神に従うことを教える責任があります。しかし、エリは、息子たちが幼い頃からずっと甘やかしてきたのです。そのため、息子たちは、従うよりも、自分たちの欲望従う者になってしまいました。

 

は「わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」(30)、エリの子孫は「年寄りがいなくなる」(31,32)、「壮年のうちに死ななければならない」(33)、ホフニピネハスは、ふたりとも一日のうちに死ぬ」(34)と言われました。は「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こそう」(35)と語られました。それは幼いサムエルのことでした。やがて、サムエル成長し、エリ代わって主に仕える祭司となります。こうして、サムエルは、主に尊ばれる者となるのです。私たち、主の臨在の中で主を体験的に知り主を恐れ主を尊ぶ者となりましょう。

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