サウルを殺さなかったダビデ
Ⅰサムエル26章
24.4.21.
26章では、ダビデに再びサウルを殺す機会が訪れることが記されている。ダビデの部下は、サウルを殺すように勧めたが、ダビデはどのように行動したのか。
1.ダビデはサウルの命を絶たなかった
ジフ人たちは、北に40kmも離れていたギブアにいたサウルのところまでやって来て、ダビデがジフの荒野に隠れていることを告げた(1)。そこで、サウルは「三千人のイスラエルの精鋭を率い」、「ダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。」(2) サウルは、ダビデがエン・ゲディの荒野にいた時も「三千人の精鋭」(24:2)を率いていた。今回も前回と全く同じことを繰り返している。真に悔い改めてはいなかった。
ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り確かめると、確かにサウルが来たことを知った(3-4)。そして、サウルと将軍アブネルの陣営の忍び込み、彼らが寝ていた場所を確認した(5)。夜になって、サウルと兵士たちが寝静まった時に、ダビデがアビシャイと共にサウルが眠っている幕営の中に忍び込むと、サウルは陣営の中で横になって寝ていて、彼の槍が枕もとの地面に突き刺してあった(7)。アビシャイは、エン・ゲディの洞窟で、ダビデの部下たちが言ったのと同じように、これは神が与えてくれた絶好のチャンスであると考えた(8)。
これは、ダビデにとって大きな誘惑になった。なぜなら、今、サウルを殺せば、自分の命が奪われることもなくなり、もう追われることはなくなり、逃亡生活は終わる。しかし、ダビデは、主に油注がれた方に手をかけてはならないといって、アビシャイの進言を断り、枕もとにあるサウルの「槍と水差し」だけを持ち帰った(9-11)。それは、ダビデがサウルを殺す機会があったのに、殺さなかったことを証明するため。この時、サウルたちが深い眠りに陥り、誰一人ダビデたちに気付かなかったのは、主がそのように働かれたからであった。そこに、主の守りと導きがあった(12)。
2.ダビデがサウルを殺さなかった理由
① 主を恐れていたから
サウルに油を注ぎ、イスラエルの王として立てたのは、主ご自身だった。そのサウルに手を下すということは、サウルを王として立てた主に逆らうこと、主に敵対することになった。だからダビデは「主に油注がれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」と言い、決して、サウルを殺そうとはしなかった。Cf. 23節。ダビデは、サウルを恐れていたのではなく、サウルを王として立てた主を恐れ、主の主権を認めていたのであった。
この後も最後まで、ダビデは、サウルを主に油注がれた王として敬い通し、決して自分の手で、サウルを打ち倒すということはありませんでした。ロマ13:1-2。Ⅰペテ2:18。
② 主に裁きを委ねていたから
ダビデは、自分で裁いたり復讐しないで、全てを主に委ね、最終的な裁きを主に委ねた(10)。もしかしたら、自分にも何か非があるかもしれないから。この後、ダビデは、サウルに自分の正しさを訴えているが(18)、「もしダビデに何か悪があって、ダビデを罰するために、主がサウルをダビデに敵対させようとしているのなら、サウルは主に受け入れられる。しかしサウルが自らダビデを殺そうとするなら、サウルは呪われる」と言っている(19)。ダビデは、このように自分の命が狙われているのは、もしかしたら、主によることなのかもしれないという可能性も残していた。ダビデは、自分で裁かず、裁きを全て主に委ねた。
自分で裁いたり、復讐したりするということは、自分を神とすることになる。それは、神の主権を犯すことであり、神に対する高慢である。私たちは、主が正しく裁き、正しく報いて下さると、主を信頼し、全てを主に委ねなければならない。ロマ12:17-20。箴20:22。
結論
「ダビデは向こう側に渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。」(13) そして、サウルの枕元にあった槍と水差しを示して、ダビデがサウルのもとに忍び込み、殺すこともできたが殺さなかったと訴えた(14-16)。サウルは、ダビデの声に気付き、自分の罪と愚かさを認めた。そして、二度とダビデに害を加えることはしないと約束した(21)。
この後、ダビデはサウルの宮廷に戻ることはなかった(25) これが二人にとって最後の別れとなった。ダビデは、どんな時にも主に信頼し、主に従い、王への階段を上っていった。一方、サウルは、何度も悔い改めのチャンスが与えられても悔い改めず、やがてペリシテ人の手に渡され滅んでいった。
ダビデは、決してサウルを殺そうとはしなかった。ダビデは、サウルを王として立てた主を恐れ、主の主権を認めていた。私たちも主を恐れ、主の主権を認め、主が立てた権威に従おう。ダビデは、自分で裁いたり、復讐しないで、全てを主に委ね、最終的な裁きを主に委ねた。私たちも、主が正しく裁き、正しく報いて下さると、主を信頼し、自分で裁いたり、復讐したりするのではなく、全てを主に委ねよう。イエスも裁きを父なる神に委ねることをご自分の模範をもって示された。Ⅰペテ2:21-23。
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