ゴリヤテを倒したダビデ

Ⅰサムエル17章

23.10.15.

17章では、ダビデとゴリヤテとの戦いが描かれている。ダビデは、どのような信仰をもってゴリヤテと戦ったのだろうか。

1.普段の生活の中で主の力を体験する

ペリシテ人が戦いに出て来たため、イスラエル人も迎え撃つために集まった(1-2)。すると、「ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ」(4)。ゴリヤテは、イスラエル人に一対一の戦いによって勝敗を決めようと言った(8-9)。サウルとイスラエル人たちはゴリヤテの言葉を聞いて、「意気消沈し、非常に恐れた」(11)。ゴリヤテは、「四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て」(16)、毎日同じ言葉を繰り返した。「イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。」(24)

エッサイは、戦いに出て行った三人の息子たちの安否を調べるために、羊飼いの少年ダビデに食糧を持たせて戦場へと向かわせ(17-18)。その時、「…ゴリヤテという代表戦士が、…いつもと同じ文句を繰り返した。」(23) ダビデは、ゴリヤテの言葉を聞いて、非常に憤慨た(26)。そして、サウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(32) しかし、ダビデは羊飼いの少年で、戦いの訓練も経験もなく、武器もなかった。サウルはダビデに「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若し、あれは若い時から戦士だったのだから」(33)と言った。

それに対して、ダビデは答えた。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37) 実際に、ダビデは、羊を獣から救い出すために、獅子や熊と戦った(34-36)。その中で、主の力と助けを経験してきたのであった。だから、ダビデには、ゴリヤテに勝つ確信があった。私たちも日々の生活の中で主の力と助けを体験し、その経験を積み上げていくことが必要。主が共におられ、主が働いて下さることを経験して学んでいくのである。神を知識として知っているだけでは弱いでが、神を体験することは力となる。

2.自分に与えられているものを用いる

「サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、見にはよろいを着けさせた。」(38) しかし、サウルの武具は、少年のダビデには大きすぎ、重すぎて、体に合わず、かえって邪魔になり、自由に身動きが出来なかった(39)。結局、ダビデは、サウルの兜も鎧も剣も脱ぎ捨ててしまった(39)。

ダビデは、「自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」(40) ダビデは、普段から獣を追い払ったり、打ち倒すために、石投げを使っていた。ダビデにとって、剣よりも、石投げの方が使い易かった。ダビデは、サウルからの借り物ではなく、自分が持っている物でゴリヤテに立ち向かった。

ただ人の真似をするだけではなく、自分に与えられているものを用いることが大切。かつて主は、モーセに「あなたの手にあるそれは何か」(出4:2)と問いかけました。主は、モーセが手に持っていた羊飼いの杖を用いて、御業を現わされた。私たちは、何も持っていないように見えても、既に与えられているものがある。それは、役に立たないように見えるかもしれないが、主はそれを用いて下さる。自分と他の人を比べて、人が持っているものを羨ましがる必要はない。自分には、他の人が持っているものが無いからといって悲しむ必要もない。自分に無いものを見るのではなく、与えられているものに目を向けなければならない。主は、私たちにも「あなたの手にあるそれは何か」と問いかけておられる。自分に与えられているものが、どんなに小さく、非力でも、それを主の御手に委ねる時、主はそれを用いて、御業を現して下さる。

3.主の戦いであることを覚える

ゴリヤテは、自分の目の前に、何の武器も持たない羊飼いの少年が出て来たのを見て、ダビデをさげすんで言いました。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」(43) 「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」(44) それに対して、ダビデは、大胆に言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。…すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(45-47)

「万軍の主」とは、私たちのために戦い、勝利を与えて下さる主なる神のこと。ダビデは、「万軍の主」なる神が戦い、勝利を与えて下さると信じた。Cf.ゼカ4:6。ダビデは、この戦いが人間の戦いでなく「主の戦い」であるという認識を持っていた。「主の戦い」とは、直訳では「主に属する戦い」ということ。すなわち、この戦いは、主が戦われる戦いであるということ。Cf.Ⅱ歴20:15。ダビデは、主が戦って下さり、勝利を与えて下さることを確信していた。

私たちが問題や困難に直面するときに、その問題や困難だけを見るのではなく、私たちのために戦い、勝利して下さる「万軍の主」を信仰の目をもって見上げるのである。問題や困難がどんなに大きいかということではなく、主がどんなに偉大なお方であるかということに目を留めるのである。Cf.詩121:1,2

 

「ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。」(49) ダビデはイスラエルに勝利をもたらしただけではなく、主の栄光を現した。「万軍の主」が、私たちのために戦い、勝利を与えて下さることを信じましょう。主は、人生の様々な戦いの場面で戦って下さり、勝利を与えて下さるのです。申20:3-4

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