イサクの祭壇

創世26:1-25

22.5.15.

創26:25には、「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」(25)とあります。イサクは、どのような人生を送り、「祭壇」を築いたのでしょう。

1.主の言葉に従い祝福された

カナンの地に飢饉が襲って来たため、飢饉から逃れるため、「イサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ」行きました(創26:1) イサクが暮らしていたのは、「ベエル・ラハイ・ロイ」でした(25:11)。恐らくイサクは、ゲラルから更にエジプトに行こうとしていたのかもしれません。イサクの父アブラハムもカナンの地が飢饉になった時に、エジプトに避難しました。カナンの地が飢饉で食糧がなくなっても、エジプトには豊かな作物があったからです。アブラハムは、自分の考えに従い、世の流れに合わせて、勝手に行動したのです。

しかし、この時、「主はイサクに現れて仰せられ」ました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」(2) 「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」(3) そして、更に、アブラハムに与えたのと同じ祝福が与えられました。「わたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」(4)

飢饉の中、イサクは、主の言葉に従い、カナンの地にとどまりました。そして、「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た」(12)のです。飢饉であるにも関わらず、「百倍の収穫」が得られたのは、イサクの努力になることではなく、「主が彼を祝福してくださった」からでした(12)。そして、「主が彼を祝福してくださった」のは、イサクが主の言葉に従ったからです。イサクは、状況を見て、自分の考えに従わず、この世の流れに合わせず、主が祝福して下さるという約束を信じ、主の言葉に従ったのです。主の言葉に従う時、主は祝福して下さるのです。ヨシ1:7-8

2.失敗したが守られた

イサクは、父アブラハムと同じような失敗を犯してしまいました。「イサクがゲラルに住んでいるとき」(6)、「その土地の人々が彼の妻のことを尋ね」ました(7)。その時、イサクは、妻リベカのことを「私の妹です」と噓をついたのです(7)。イサクは、「リベカが美しかったので」、ゲラルの人々がリベカを奪うために、「自分を殺しはしないかと思ったから」です(7)。イサクは心配になってしまったのです。

イサクは、主を信じ、信頼する人でしたが、完璧な人ではなく、弱さもありました。イサクの嘘は、妻リベカに姦淫の罪を犯させることであり、ゲラルの人々にも裁きと死をもたらすことであり、アブラハムの子孫が増えて、国々を祝福するという神の計画を破壊してしまうことにもなりました。しかし、ある時、「アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた」のです(8)主は、イサクとリベカが夫婦であることが分かるようにして下さったのです。

アビメレクは、人々に「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される」と命じました(11)。アビメレクは、嘘をついたイサクとリベカを罰することなく、イサクとリベカに「触れる者」が罰として「必ず殺される」と警告したのです。これによって、イサクもリベカも、ゲラル滞在中、守られることになりました。彼らの安全がゲラルの王アビメレクによって保障されることになったのです。イサクは失敗してしまいましたが、不思議な方法で守られることになりました。詩91:11

3.争いを避けて繁栄した

イサクは「富み、ますます栄えて、非常に裕福に」なりました(13)。そして「羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つように」なりました(14)。そのため、「ペリシテ人は彼をねた」むようになりました(14)。「それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ」です(15)。水は、命の次に重要なものです。水が無ければ、生きてゆけません。「井戸に土を満たして」塞いでしまうということは、命を絶つということです。そもそもその井戸は、アブラハムとアビメレクの間で正式な契約が結ばれ、その井戸の所有権は、アブラハムにありました(創21:22-33)。さらに、アビメレクは、イサクに「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ」と言いました(16)

イサクは、自分の権利を主張することも、その井戸を力づくで取り返すことも出来ました。しかし、イサクは、「そこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ」のです(17)。イサクは、「父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び」掘りました(18)。「イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけ」ました(19)。しかし、「ゲラルの羊飼いたち」が来て、「この水はわれわれのものだ」と言って、「イサクの羊飼いたちと争った」のです(20)。イサクの「しもべたちは、もう一つの井戸を」掘りましたが、「それについても」争いました(21)。さらにイサクは、「ほかの井戸」を掘り、「その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと」呼びました(22)。「広々とした所」の意。イサクは「主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにして下さった」と言いました(22)。

イサクは、争いが起こる度に、新しい場所に移って、新たに井戸を掘りました。

イサクは、自分の権利を主張することも出来ましたが、争いを好みませんでした。どんなに酷い嫌がらせを受けても、それに対して報復したりしませんでした。イサクが主が祝福して下さるという約束を信じていたからです。詩127:1-2マタ5:5

 

イサクは「ベエル・シェバに」行きました(23)。そこで主は祝福の約束を与えられました(24)。そこで、「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」のです(25)。イサクは、これまでのことを覚え、主に感謝の祈りをささげ、礼拝をささげたのです。私たちも主の前に出て行き、祈りの祭壇を築き、感謝と礼拝をささげましょう。

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