イエスにとどまり実を結ぶ(6)
ヨハネ15:1-10
22.10.16.
イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。
〈前回からの続き〉
7.実を結ぶための刈り込み
農夫は、ぶどうの木が豊かに実を結ぶために、刈り込みをして、余分な枝を取り除きます。同様に、父なる神は、私たちが多くの実を結ぶために、私たちに刈り込みをなさいます(ヨハ15:1-2)。「刈り込みをなさいます」のギリシヤ語は「カサイロー」で、「きよくする」という意味があります。私たちが実を豊かに結ぶためには、きよめが必要です。実を豊かに結ぶことを妨げたり、霊的な命や力を奪い取ってしまうものはないでしょうか。
① 私たちが刈り込まれるべきもの
a) 悪習慣と古い性質
私たちは、イエスを信じて救われ、新しく造り変えられました(Ⅱコリ5:17)。しかし、未だに悪習慣と古い性質に縛られ、信仰の成長が妨げられていないでしょうか。たとえば、酒、タバコ、ドラッグ、ギャンブル、盗み、うそ、自己中心、高慢、不従順、短気、妬み、不忠実、不品行、悪い人間関係等。悪習慣と古い性質の枝が伸び放題であるなら、その部分は刈り込まれなければなりません。Cf. コロ3:5。へブ12:1。
b) この世のものに対する執着
イエスは「種まきのたとえ」(マタ13:3-9)の中で、「いばらの中に落ちた」種は、「いばらが伸びて、ふさいでしまった」ため、実を結ぶことが出来ませんでした。イエスは、「いばら」の地とは、「この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさくだめ、実を結ばない人のことです」と説明されました(マタ13:22)。お金、仕事、物、趣味などこの世のものへの執着は、霊的成長の妨げとなります。神とこの世のものを同時に愛することは出来ません(Ⅰヨハ2:15-17)。Cf.マタ6:24。
c) 思い煩い
人生には様々な問題や必要があります。それらのものに心が支配されて思い煩うと、そちらにエネルギーが吸い取られます。心配や思い煩いはり、霊的成長の妨げとなりなります。
だからイエスは「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」と言っています(マタ6:31)。
② 神様が刈り込む方法
農夫である父なる神は、どのように私たちを刈り込みをされるのでしょう。
a) 御言葉によって
イエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(3)と言われました。2節の「刈り込みをさないます」は、この「きよいのです」いう形容詞から派生した動詞です。すなわち、父なる神は、御言葉をもって、私たちを刈り込み、きよめられるのです。ヘブ4:12では、「神のことば」が「両刃の剣」として表現されています。「神のことば」によって、「心のいろいろな考えやはかりごと」が「判別」されるのです。すなわち、御言葉によって、私たちの動機や本心を探られるのです。パウロは、聖書が私たちを造り変えるために有益である、と教えています(Ⅱテモ3:16-17)。
b) 試練によって
私たちは、試練によって、自分の愚かさ、弱さ、足りなさ、限界などが示され、いかに自分が小さな存在であるか示され、へりくだらされるのです。パウロも、自分に与えられている試練について、「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」(Ⅱコリ12:7)と言っています。Cf.伝7:14。詩119:71。そして、試練の時には、神以外に頼るものがなくなり、自分の知恵や力ではなく、神だけに頼るようになります(Ⅱコリ1:9)。試練の火を通して、余分なものが取り除かれて、信仰が純化され、純粋な心で神を呼び求めるようになるのです。聖書は、試練を通して、成長出来ると言っています(ヤコ1:2-4)。試練の中で、砕かれ、へりくだらされ、悔い改めさせられ、きよめられていきます。そして、霊的・信仰的に成熟したクリスチャンとなっていくのです。
私たちが豊かに実を結ぶためには、農夫である父なる神の刈り込みを受けなければなりません。農夫である父なる神は、私たちが豊かに実を結ぶ者となるために、妨げになる枝に刈り込みをして、きよめを行うのです。それは、私たちが大切にしている部分、頼りにしている部分かもしれません。そこにハサミを入れられるということは、人間的には惜しく、痛い経験ですが、それは私たちが豊かに実を結ぶ者となるためには必要なことなのです。その時は痛みを伴いますが、それは神の御手の中で豊かな祝福になっていくのです。御言葉に従うことによって、試練を通されることによって、悪習慣と古い性質、この世のものに対する執着、思い煩いからきよめられましょう。農夫が、愛情をかけて、ぶどうの木を育てるのと同じように、父なる神は、私たちに愛情を注いで、私たち一人一人を育て、豊かに実を結ばせたいと願っておられるのです。
Filed under: 伊藤正登牧師