イエスにとどまり実を結ぶ(5)
ヨハネ15:4-10
22.10.9.
イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。
〈前回からの続き〉
6.キリストのからだなる教会にとどまる
イエスは「わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)と言われました。それは、「互いに愛し合いなさい」という、イエスの戒めを守るということです(10,12)。
① 教会で愛を実践する
ここで、イエスが語っている「あなたがた」とは、弟子たちのことです。ですから、イエスが「互いに愛し合いなさい」と語られたのは、直接的には、弟子たちの間で、互いに愛し合うようにということなのです。これを私たちに適応するなら、イエスが「互いに愛し合いなさい」と語られたのは、単に私たちが自分の家族や友人や世の人々を愛するようにということではなく、主にある兄弟姉妹の間で、教会の兄弟姉妹の間で愛し合いなさいということなのです。
互いに愛し合うということは、特に教会において、実践されるものです。「教会」は、ギリシヤ語で「エクレシア」と言い、「召し集められた者」という意味です。ですから、教会とは、建物ではなく、そこに集まっているイエスを信じる人々のことです。教会には、主によって召し集められた様々な人々がいます。自分とは考え方、感じ方が違う人々、タイプの違う人々、合わない人々がいるでしょう。その中で、愛し合うことを学び、訓練され、実践されるのです。Cf.コロ3:13-14。教会において、兄弟姉妹が互いに愛し合うことによって、イエスの愛にとどまり、私たちは霊的に、人格的に成長して、多くの実を結ぶようになるのです。
② キリストの体として一つとなる
エペ1:23には「教会はキリストのからだ」であると言われています。そして、Ⅰコリ12:27では「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と言われています。そして、私たちは「キリストのからだ」なる「教会」に一体となるように召されたのです(Ⅰコリ12:13。コロ3:15)。さらに、エペ4:3には「一致を熱心に保ちなさい」と言われています。ですから、私たちは、「キリストのからだ」なる「教会」として一つとなるように、自分の意志を傾け、努力しなければならないのです。自然のままにしていても、決して一致は出来ません。なぜなら、自然のままにしていると、自我と欲望がぶつかり合って、戦いになるからです。
イエスにとどまるということは、イエスの愛の中にとどまるということであり、それは、私たちが互いに愛し合うことです。そして、それは、「キリストのからだ」なる「教会」において実践されるものです。ですから、「キリストのからだ」なる「教会」として、一つとならなければなりません。それが、イエスにとどまるということにもなるのです。
③ 教会との繋がりを大切にする
イエスにとどまるということについて、イエスとの個人的な関係を持つということだけが強調されることがあります。極端な例として、イエスとの個人的なつながりをしっかりと持ってさえいれば、教会は必要ではなく、教会に行かなくても信仰生活を送ることが出来るという考え方です。あるいは、教会はどこも同じだから、どの教会に行ってもいいと考え、一つの教会に繋がろうとしない人たちもいます。その人たちは、教会との関係を深めることもなく、責任を負うこともなく、教会から教会へと渡り歩いているのです。これらのような考えは、偏った考え方で、聖書の教えに沿ったものではありません。「ひとつのからだとなるように」、「一体となったのです」という教えに反します。
もし個人的にイエスとのつながりを持っているのなら、その人は「キリストのからだ」なる「教会」にも繋がっているはずなのです。イエスを愛する者は、イエスが建てた教会(マタ16:18)、イエスが愛しておられる教会(エペ5:25)をも愛するはずです。イエスにとどまるとは、単に個人的なイエスとの関係のことだけを言うのではなく、この地上におけるイエスの現われである教会にとどまることも言うのです(Ⅰヨハ4:20-21)。
イエスが私たちを愛して下さったように、私たちが互いに愛し合うことによって、イエスの愛にとどまり、イエスご自身にとどまることができるのです。ですから、イエスにとどまるということは、イエスとの縦の関係を築き上げることであり、教会における兄弟姉妹との横の関係を築き上げることであると言えます。それは、「キリストのからだ」なる「教会」との繋がりを意味します。イエスは、約2千年前には、肉体をもってこの地上を実際に歩んでおられましたが、今日、ご自身の「からだ」なる「教会」によって、ご自身の姿を現しておられます。ですから、イエスにとどまるとは、ご自身の「からだ」なる「教会」にとどまること、教会とのつながりを持つということであると言えるのです。私たちは、自分が召された一つの「教会」にとどまることによって、互いに愛し合うことを学び、訓練され、実践されるのです。そして、他の人を愛する人は、霊的にも、人格的にも成長し、「多くの実」を結ぶのです。私たちが多くの実を結ぶことによって、主の栄光を現すことが出来ます(ヨハ15:8)。イエスにとどまり、多くの実を結び、主の栄光を現しましょう。
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