イエスにとどまり実を結ぶ(4)

ヨハネ15:4-10

22.10.2.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

〈前回からの続き〉

前回のメッセージで、として「聖霊によって神の愛に満たされる」としましたが、今日のテーマ「赦しの心を持つ」をとします。

 

② 赦しの心を持つ

イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」とは、イエスが私たちを「赦してくださったように」、私たちも「互いに赦し合」うということです(エペ4:32コロ3:13)。

 

イエスは「七度を七十倍するまで」(マタ18:22)赦しなさいと言われました。そして、その後で、「無慈悲なしもべ」の例え話をされました(マタ18:23-35)。「王」から「一万タラントの借りのあるしもべ」が「借金を免除」してもらいました。しかし彼は「百デナリの借りのある者」を赦さず、「牢に投げ入れ」てしまったのです。それを知った「王」は、非常に怒り、その「しもべ」を牢に入れてしまいました。この例え話の中で、大切なポイントは、33節の「主人」の言葉です。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」すなわち、主に赦された者として、他の人も赦すべきであるということです。

ギリシヤ語で「赦す」という言葉には、「解放する」という意味もあります。誰かを赦すということは、その人を罪の責めから解放してあげるということです。しかし、赦しは、相手を解放するだけではなく、自分自身をも解放することにもなります。もし、私たちが赦さないなら、いつまでも怒り、恨み、憎しみ、悲しみます。いつまでも心は傷つき、被害者意識を持ち続け、惨めな気持ちを持ち続けるようなります。いつまでも相手に傷つけられ続けるということでもあります。やがて、心も体も蝕まれ、人生はボロボロになってしまいます。ですから、エペ4:26-27には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。

人を赦すこと、その人を罪の責めから解放することは、自分自身をも怒り、恨み、憎しみ、被害者意識、惨めな気持ちから解放することになるのです(ルカ6:37)。赦しは、相手のためだけではなく、自分自身のためにも必要なのです。自分が握りしめている怒り、憎しみ、復讐心を手放し、神の手に委ねなければなりません(ロマ12:17-21)。

一度、赦しても、また赦せない気持ちなるかもしれません。その度に赦し続けるのです。赦しは生涯続くものなのです。赦しとは「忘れること」ではありません。「思い出さないこと」です。主は、私たちの「罪を思い出さない」と言われました(イザ43:25-26)。Cf.エレ31:34。主は、「もうあなたの罪を思い出さない」と言っておられます。そのように、私たちも、人の罪を敢えて思い出し、その時の怒りや憎しみの気持ちを温め直すようなことはやめましょう。主は「すべての罪を、…うしろに投げやられ」、もう振り返ることはないのです(イザ38:17)。主は「怒りをいつまでも持ち続け」ません(ミカ7:18-19)。主は「すべての罪を海の深みに投げ入れて」、再びそれを釣り上げません。そのように、私たちも「罪を思い出さない」ことが必要です。

赦していない人がいたら赦しましょう。自分を傷付けた人を赦しましょう。何度も恨みを繰り返すのではなく、それを手放してしまいましょう。もういつまでも、傷つき続けられる必要はありません。私たちは、主に赦されたのだから、他の人を赦さなければならないのです。

 

愛は、神から与えられるものです(Ⅰヨハ4:7-8)。そして、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」るのです(ロマ5:5)。私たちが神の愛に満たされるためには、聖霊の満たしが必要なのです。聖霊との親しい交わりの中で、神の大きな愛に包まれることが出来るのです。神の愛が注がれるために、主の臨在を求め、聖霊との親しい交わりを持ちましょう。「互いに愛し合い」、「互いに赦し合い」、イエスの「愛の中に」とどまりましょう。そして、「多くの実」を結ぶ者とならせていただきましょう。ヨハ13:35Ⅰヨハ4:12

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