アブラハムの祭壇

創世12:7-8、13:2-4、22:9-10

22.4.3.

アブラハムの人生は、「祭壇を築く人生」だったと言うことが出来ます。なぜなら、アブラハムは行く所々に祭壇を築いて祈ったからです。アブラハムが築いた祭壇は、どのような祭壇だったのでしょう。

1.感謝の祭壇-主の恵みを覚える

主は、アブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」(創12:1)と語られました。これが最初に語られたのは、「カルデヤ人のウル」(創11:28)に住んでいる時でした(使7:2-3)。そこに住んでいたら、何不自由なく暮らすことが出来たでしょう。安定した豊かな暮らしを捨てて、何の保証もない未知の土地に行くことは、常識的に考えたら無謀なことであり、普通はあり得ないことでした。しかし、アブラムは、「あなたを祝福」(創12:2)するという約束を信じて出発しました。

途中、「ハランまで来て、そこに住みつい」(創11:31)てしまいましたが、父テラが死んだ時、は再び、「わたしが示す地へ行きなさい」と語られたのです。やがて、アブラムたちは「カナンの地」に入ることが出来ました(創12:5)。彼らは「シェケムの場、モレの樫の木のところまで」(創12:6)来ました。「シェケム」は、カナン人の宗教、偶像礼拝が行われていた地でした。そのような異教と偶像礼拝の地において、アブラムに現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(創12:7)と言われました。その時「アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」(創12:7)のです。

アブラムが「祭壇を築いた」のは、に祈りをささげるためでした。この後、アブラムは「ベテル」へと向かい、「アイ」との間に「天幕」を張り宿営し、「主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」(創12:8)とあります。アブラムは、異教の民が住んでいて、偶像礼拝が行われていた場において、約束の地まで導ちびき、「自分に現れてくださった主」に心を向けました。そして、ここまで導き、「この地を与える」と言われたに感謝の祈りをささげたのです。

私たちも、これまで導いて下さったに心を向け、がして下さった恵みを覚え、感謝の祈りをささげようではありませんか(詩103:1-2)。

2.軌道修正の祭壇-主に立ち返る

この後、「この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った」(創12:10)とありす。「カナンの地」が飢饉の時、人々はエジプトへと避難しました。アブラムも周りの人々と同じように、エジプトへと向かいしまた。しかし、この時、アブラムは、の前に出て、御心を祈り求めることをしませんでした。アブラムは、自分の考えに従い、周りの人々の行動に合わせてしまったのです。そして、エジプト人が自分の妻サラを奪うために、自分を殺すのではないかと心配し、「どうか、私の妹だと言ってくれ」(創12:13)とサライに頼みました。

彼らがエジプトに入ると、「パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられ」(創12:15)てしまいました。「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた」(創12:17)のです。アブラムは、エジプトでは祝福ではなく、「災害」をもたらしてしまったのです。こうして、アブラムサライは、エジプトから追い出されてしまいました(創12:20)。

再び、「アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上っ」(創13:1)て行きました。そして、「ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで」(創13:3)来ました。「そこは彼が以前に築いた祭壇のある場所で」、「その所でアブラムは、主の御名によって祈った」(創13:4)のです。アブラムは、再び、信仰の原点に返ったのです。すなわち、もう一度、自分を召し、導いて下さったに心を向け、に従うことを表明するための軌道修正の祈りをささげたのです。

私たちは、に従って歩んでいるでしょうか(哀歌3:40-41)。

3.献身の祭壇-自分を供え物としてささげる

創22:1には、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に合わせられた」とあります。は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創22:2) と語られました。は、アブラハムに、最愛の一人息子イサクを殺し、焼き尽くせと命じられたのです。の言葉は、信じられない、受け入れられないようなことでした。しかし、「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、…息子イサクとをいっしょに連れて…神がお告げになった場所へ出かけて行った」(創22:3)のです。アブラハムは、何の疑いも、躊躇もなく、直ぐにの御声に100%従いました。

アブラハムは、「神がお告げになった場所」に着くと、「祭壇」(創22:9)を築きました。そして「たきぎを並べ」、「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置」(創22:9)き、「刀を取って自分の子をほふろう」(創22:10)とした時、「御使い」がアブラハムを止めさせました(創22:10)。アブラハムの主に対する愛と信仰が試され、本物であることが証明されたのです。「神を恐れる」とは、神を畏れかしこんで、神の言葉に聞き従うことです。

 が求めていたのはイサクではなく、アブラハムに対する心だったのです。は、アブラハムがどれだけを愛し、に信頼し、従うか試されたのです。アブラハムがささげたのは、イサクではなく、実はアブラハム自身だったのです。ロマ12:1には「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とあります。

私たちも、自分をにささげ、の御心に従って生きていくのです。

 

アブラハムの祭壇は、自分の人生の中にの主権を認めるということだったのです。私たちも日々、の主権を認めて、「祈りの祭壇」を築いていきましょう。箴3:5-6

Filed under: 伊藤正登牧師