わたしについて来なさい
ルカ9:57-62
24.8.11.
イエスは、ガリラヤ湖で網を打っていたペテロとアンデレに呼びかけた。「わたしについて来なさい。」(マタ4:19) すると、「彼らはすぐに網を捨てて従った」(マタ4:20)。また、イエスは舟の中で父と一緒に網を繕っていたヤコブとヨハネにも呼びかかけた。すると、「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」(マタ4:22)。イエスの「わたしについて来なさい」という呼びかけは「弟子」への招きだった。イエスは、私たちにも「わたしについて来なさい」と呼びかけている。ルカ9:57-62で、イエスは、イエスに従う者の心構えを教えている。
1.労苦することを覚悟する
ある人が、「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」(57)と言った。彼は、イエスの弟子となることは、名誉で素晴らしいことだと考えたのだろう。確かに、主に従うということは、永遠に残る働きであり、主の弟子として用いられるということは、栄誉なことであり、本当に価値のある生き方。イエスは言われた。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハ6:27)
しかし、価値のあるものほど、代価として払う犠牲も大きい。イエスは彼に答えた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(58) 弟子たちが活躍している姿は、とても華々しく見えるかもしれない。しかし、弟子の道は、決して楽なものばかりではなく、様々な困難も伴う。主であるイエスでさえも労苦し、休むことも出来なかった。イエスに従いながら、楽で安定した生活を期待することは出来ない。単なる憧れで、弟子になっても、後で落後してしまう。弟子となる者は、イエスに従うことには様々な労苦が伴うことを覚悟しなければならない。
2.神の国の働きを優先する
イエスは、ある人に呼びかけた。「わたしについて来なさい。」(59) すると、その人は「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と答えた(59)。この人は、イエスに従うことを拒むことはなかったが、自分のするべきことをした後で、イエスに従うと言った。ユダヤ教では、親への敬意を表わすため、「父を葬る」ことは他の規定に優先していた。しかし、この場合、今、父親が死んで、葬式をすぐに行うということではなかった。父親は健在で、父親が死んで葬る時まで待って下さい。それから従いますということ。つまり、彼は、今、主の弟子として主に仕えることは避けたかった。そのために、何かの口実(言い訳)を言って、主に従うことを先延ばしにしようとした。
イエスは彼に言った。「死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(60) これは、肉体的に死んだ人たちを葬ることは、霊的に死んだ人たち(未信者たち)に任せ、霊的に新生した者は、人々に福音を宣べ伝えて、人々を救いに導きなさい、ということ。イエスは、神の国の福音を宣べ伝えることが、何よりも優先すべきこと、緊急事項であるということを教えた。福音を宣べ伝えることが出来るのは、この地上にいる間だけ。人々に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導くという神の国の働きは、優先すべき緊急事項。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハ9:4)
3.主に従う決意を覆さない
ある人がイエスに言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」(61) この人は、一旦は「主よ。あなたに従います」と宣言している。この人には、イエスの弟子となり、イエスに従いたいという熱意もあったが、同時にこの世のものに対する愛も断ち切れずに、二心となってしまっていた。
イエスは、彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(62) イエスは、一旦、主の弟子となり、主に従おうとしながら、この世のものに心を惹かれてしまうなら、神の国のために働く主の弟子として相応しくない、と言われた。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタ6:24)。Cf.「…二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコ1:8) 一旦、主の弟子となり、主に従おうと決意したなら、後ろを振り返らず、自分に与えられた福音宣教の使命に突き進んでいかなければならない。主に従う決意を覆さず、神の国の働きに集中し、そのために全力を尽くす。
ペテロとアンデレは、躊躇することなく、決心を遅らせることなく、すぐに生活道具である「網を捨てて」(マタ4:19)、仕事を捨ててイエスに従った。ヤコブとヨハネも、「すぐに舟も父も残して」、仕事も家族も捨ててイエスに従った。彼らには、イエスの招きを断る正統的な理由はいくらでもあっただろう。「仕事がありますから」、「家族がいますから」、「他のやりたいことがありますから」と。しかし、彼らは、仕事も家族も財産も捨ててイエスに従ったのでした。彼らは、色々と口実を言って、招きを拒むことなく、直ぐにイエスの招きに応答した。イエスが弟子に求めていることは、彼らのような素直な応答。今日も、イエスは、私たちに「わたしについて来なさい」と呼びかけておられる。イエスの弟子となり、イエスに従おう。
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