イエスにとどまり実を結ぶ(3)

ヨハネ15:4-10

22.9.18.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

 

〈前回からの続き〉

 

5.イエスの愛にとどまる

イエスは、ぶどうの木の例え話の文脈の中で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハ15:9)と語られました。イエスにとどまるとは、イエスの「愛の中に」とどまるということでもあるのです。そして、イエスの「愛の中に」とどまるとは、「戒めを守る」(10)ことです。イエスの「戒め」とは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」です(121713:34)。ですから、イエスの「愛の中に」とどまるということは、「互いに愛し合う」ということです。私たちが「互いに愛し合う」ことによって、イエスの「愛にとどまる」ことが出来るのです。イエスが私たちを愛して下さったように、互いに愛し合うとは、どういうことでしょうか。

① 自分の方から愛する

神は、私たちがまだ神を知らず、神を信じず、神に背いていた時、自己中心的な、罪深い生き方をしていたにも関わらず、私たちを愛して下さいました。そして、私たちを救うためにイエスを遣わして下さったのです(ロマ5:6-8Ⅰヨハ4:10)。イエスは、私たち罪人を救うために、十字架にかかり、命を捨てて下さいました。それによって、私たちに対する最大の愛を示して下さったのです(13)。

そのように、私たちも、自分の方から愛していくのです。相手が動き出すまで待っているのではなく、自分の方から行動を起こすのです。感情によってではなく、意志を働かせることによって、信仰によって愛するのです。最初は、いやいやながらかもしれませんが、そのうちに愛を感じるようになります。自分の感情に焦点を当てている限り、いつまで経っても愛は生まれません。

② 聖霊によって神の愛に満たされる

問題は、私たち人間には、愛がないということです。愛は、聖書よく学んだり、努力することによって持てるというわけではありません。愛は、神から与えられるものなのです(Ⅰヨハ4:7-8)。聖霊は、私たちの心に神の愛を注いで下さるいます(ロマ5:5)。ですから、私たちが神の愛に満たされるためには、聖霊の満たしが必要です。賛美や祈りの中で、主の臨在の中に入ることが出来ます。そして、主の臨在の中で、聖霊との親しい交わりを持つことが出来ます。さらに、聖霊との親しい交わりの中で、神の大きな愛に包まれることが出来るのです。このように、愛とは、単に感情的なものではなく、霊的なこと、超自然的なことなのです。

日々聖霊との親しい交わりによって、神の愛に満たされますが、私たちの心がこの世のことに奪われている時、また忙しさのために主との交わりが持てない時、神の愛が感じられなくなります。そして、何の喜びも感謝も感じられなくなり、形式的、表面的、律法的な信仰生活に陥ってしまいます。ですから、どのような時にも、主の臨在と聖霊の満たしを求めることが必要です。

 

イエスは「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハ15:9)と語られました。そして、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(10)と語られました。イエスの「戒め」とは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」なのです(12)。

「互いに愛し合うこと」ということは、一人では出来ないことであり、相手を必要とします。その相手は、必ずしも自分の好きな人、親しい人ばかりではありません。親切で、優しい人たち、良い人たちを愛するのは簡単です。そういう人たちに対しては、特別に愛を働かせる必要はありません。自然と愛せます。しかし、私たちの周りには、そのような愛し易い人ばかりではありません。自分にとって苦手なタイプの人、愛しにくい人もいます。それどころか、悪口を言ったり、意地悪をするような人もいるでしょう。しかし、イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言われました(ルカ6:27)。神は、私たちに愛するということを学ばせるために、敢えて私たちの周りに愛しにくい人々を置かれることがあります。これは、特に教会において、実践され、訓練されるものなのです。「教会」は、ギリシャ語で「エクレシア」と言い、「召し集められた者」という意味です。教会には、主によって召し集められた様々な人々がいます。自分とは考え方、感じ方が違う人々、タイプの違う人々、合わない人々がいるでしょう。その中で、「互いに愛し合うこと」を学び、訓練され、実践されるのです。Cf.コロ3:13-14

イエスの「愛の中に」とどまることは、「互いに愛し合うこと」によってなされます。そして、他の人を愛する人は、霊的にも、人格的にも成長し、「多くの実」を結ぶのです。神の愛が注がれるために、主の臨在を求め、聖霊との親しい交わりを持ちましょう。そして、「互いに愛し合い」、イエスの「愛の中に」とどまり、「多くの実」を結ぶ者とならせていただきましょう。Cf.Ⅰヨハ3:21-24

イエスにとどまり実を結ぶ(2)

ヨハネ15:4-8

22.9.11.

イエスは、ご自分と私たちとの関係を「ぶどうの木」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

(さらに…)

イエスにとどまり実を結ぶ(1)

ヨハネ15:4-8

22.9.4.

イエスは、ご自分と私たちの関係を「ぶどうの木と枝」の例え話をもって説明されました。「イエスにとどまる」、「実を結ぶ」とはどういうことでしょう。

(さらに…)

ダビデの祭壇(2)

Ⅰ歴代21:1-27

22.8.21.

「ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげて、主に呼ばわった」(26)とあります。ダビデが築いた祭壇から、どのようなことが教えられるのでしょうか。

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ダビデの祭壇(1)

Ⅰ歴代21:1-27

22.8.14.

主の使いは、先見者(預言者)ガドを通して、ダビデに「ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない」(18)と語りました。ダビデは主に語られ通り「主のために祭壇を築き」(26)ました。ダビデが築いた祭壇から、どのようなことが教えられるのでしょうか。

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エリヤの祭壇

Ⅰ列王18:16-40

22.7.17.

30節に、エリヤは「こわれていた主の祭壇を建て直した」と書いてあります。エリヤが建て直した祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。

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ヤコブの祭壇3

創世35:1-15

22.7.10.

主は、ヤコブに「祭壇を築きなさい」(1)と語られました。その祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。

(さらに…)

ヤコブの祭壇2

創世35:1-15

22.7.3.

主は、ヤコブに「祭壇を築きなさい」(1)と語られました。その祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。

(前回の復習)

1.信仰の原点に立ち返るための祭壇

① ヤコブの生い立ち(創25:20-28)

② 長子の権利を奪う(創25:29-34)

③ エサウの祝福を奪う(創27:1-40)

④ ハランへの逃避(創27:41-28:5)とベテルでの主の現れ(創28:10-22)

ヤコブは、ベテルで初めて主に出会い、共におられる主に対する信仰が生まれました。ベテルでの経験は、真の信仰を持つようになった信仰の原点の時だったのです。ベテルに戻って祭壇を築けという主の命令は、ヤコブが初めて主に出会い、主との関係を持った信仰の原点に戻ることだったのです。私たちも、もう一度、信仰の原点、初心に戻りましょう。黙2:4-5。初めの愛、初めの信仰、初めの情熱、初めの決心に戻るのです。

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父なる神の愛

ルカ15:11-32

22.6.19.

この例え話の中心人物は放蕩息子ではなく、放蕩息子を待ち続け、受け入れた父です。この父は、聖書の父なる神を表しています。放蕩息子の父を通して、父なる神がどのようなお方であるかを学びましょう。

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ヤコブの祭壇

創世35:1-15

22.6.12.

主は、ヤコブに「祭壇を築きなさい」(1)と語りかけておられます。その祭壇には、どのような意味があったのでしょうか。

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