主は陶器師

エレミヤ18:1-6

220828

今日は陶器師が粘土で器を作る話です。陶器師は粘土を使ってどんな形の器も作ることができます。しかし、同じ粘土で違う形の器を作るときは、いったん完全につぶしてから別の形を作るものです。この陶器師と粘土の話は、私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。御言葉から学びましょう。

1.神は私たちを砕き、また造られる

神はエレミヤを陶器師のところに遣わされました。陶器師が粘土で陶器を作り、壊し、また作る様子を見せました。そのとき、主はエレミヤに語られました。イスラエルの家は、神の御手の中にあり、造られたり壊されたり、また造られたりするのです。イスラエルの家ということは、私たち主を信じるクリスチャンたちにも言えることなのです。神は私たちを砕き、また別の形に作られます。神は私たちを、御心の形へと造り変える権威を持っておられるのです。神は私たちを愛しているので、私たちを見捨てないで、造り変えてくださいます。

この地球もそうです。神はこの地上に大洪水を送り、この世界は一度完全に滅びるほどになりました。それあと、新たな世界が造られたのです。

イスラエルはアッシリアとバビロンによって完全に滅ぼされてしまいました。しかし、そのあと、イスラエルは新たに造られました。

日本も、かつては自由に信仰をもつことができませんでしたが、戦争でほとんどの都市は完全に破壊され、広島と長崎には原爆も落とされました。すると、今では世界の先進国になり、誰でもイエスを信じて救われる時代になりました。

2.患難によって自我が砕かれ、新しくされる

人々の心が神から離れ、人々が自分勝手に生きるようになったとき、神は預言者を送り、御言葉を送って悔い改めを迫ります。御言葉は私たちを御心の形へと導かれます(詩篇119:105,130)。また、聖霊によって、私たちの内側から導いてくださいます。聖霊は私たちをイエスの御姿へと変えてくださいます(Ⅱコリント3:18)。

しかし、人は自分の自我が強すぎて、自分の考えにこだわり、自分を正しいとするとき、御言葉によっても、聖霊によっても、私たちが変わろうとしなくなります。そのようなとき、神はやむなく、私たちに災いが起こることを許されることがあります。それは私たちのおごりが砕かれるためです(エレミヤ18:11-12)。患難は、私たちのおごり砕き、私たちの品性を造り変え、希望を生み出します(ローマ5:3-5)。

ヨブは正しい人でしたが、自分が正しいということに強い自信をもっていました。しかし、神は彼に患難を与え、彼のおごりを砕き、彼を造り変えました。そのとき、彼の人生はさらに祝福されました。

ある人は、大きな困難によって、完全に打ちのめされ、そこで初めてイエスを知って救われます。またあるクリスチャンは、試練を通して打ち砕かれ、自分の考えを捨て、主に献身するようになります。自我が砕かれるとき、私たちは新しくされるのです。

3.患難に遭わずに済む方法もある

私たちはできることなら大きな困難に遭いたくありません。実は神も私たちを砕きたくはないのです。

ヨナ記によると、ニネベという町の罪が大きくなると、神はこれを滅ぼそうとされました(ヨナ1:2)。しかし、神はニネベを滅ぼしたくなかったとあります(ヨナ4:11)。そこで、神はヨナを遣わしたのです。するとニネベの人々は悔い改め、へりくだりました。すると神はニネベの町を滅ぼすのをやめました。

私たちも自分の道を捨て、神に立ち帰り、御言葉に従うなら、裁かれないのです。自分を正しいと思わず、自分で自分を裁くなら、もう裁かれません(Ⅰコリント11:31)。

神の御計画は私たちの計画とは違います(イザヤ55:8-9)。たとえ神の御計画を理解できなくても、納得できなくても、神に従いましょう。私たちは、この世ではなく、神の御心に合わせていかなければなりません(ローマ12:2)。自分に死んで主に従うとき、新しい人生が開かれます。それは、自分を失うことではなく、本当の自分を見つけることになるのです。

まとめ

陶器師が粘土を思いのままに作ったり壊したり、また作り変えたりするように、神も私たちを造り変えられます。神は御言葉と聖霊によって私たちを造り変えられます。しかし、ときには私たちの固い心を砕くため、患難、苦しみを通して私たちを造り変えられます。私たちは、神に信頼しましょう。やがて、私たちに清い品性が育ち、神の栄光を現す御心の器へと変えられます。

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