ゲッセマネの祈り
マタイ26:36-46
22.4.10.
イエスは弟子たちと「最後の晩餐」と呼ばれる「過越しの食事」の後、「オリーブ山へ出かけて」(30)行き、「ゲッセマネという所」(36)に来ました。そこは、いつもイエスと弟子たちが集まっていた場所でした(ルカ22:39-40、ヨハ18:2)。ここで、イエスは祈りました。イエスは、どのような祈りをしたのでしょう。
1.苦悶の祈り
「ゲッセマネ」は、エルサレムの東にあるオリーブ山の麓にある「園」(ヨハ18:1)です。「ゲッセマネ」とは、ヘブル語で「油しぼり」という意味があります。「ゲッセマネ」の「園」には、かつて多くのオリーブの木がありました。そして、オリーブの木から取れる実から油をしぼる圧搾所があったと言われています。
イエスは、弟子たちに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい」(36)と言い、「ペテロとゼベダイの子ふたりをいっしょに連れて行かれ」ました(37)「ゼベダイの子ふたり」とは、「ヤコブ、ヨハネ」です(マコ14:33)。やがて「イエスは悲しみもだえ始められ」(37)ました。「もだえる」とは、「苦痛などのあまり体をよじる(まげる)」ことです。そして、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38)と言われました。
イエスは、人となられた神であり、神の御子です。イエスは、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、嵐を静め、5つのパンと2匹の魚で男だけでも5千人の人々を満腹にしました。イエスには、神の権威と力がありました。何も恐れるものはなかったはずです。しかし、ここでは、「死ぬほど悲しみ」と「苦しみ」がありました。あまりにも悲しく、苦しかったので、3人の側近の弟子たちに、「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(38)と言ったほどです。まだ信仰も弱い弟子たちに、共にいて欲しいと願う程、悲しく、苦しかったのです。イエスの悲しみと苦しみは、私たちの想像を遥かに超えるものでした。それは、油を搾り出すような苦悶の祈りだったのです。
2.苦難からの解放を求める祈り
「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して」(39)祈りました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39) マコ14:36では「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」となっています。
「この杯」とは、何を意味しているのでしょう。マタ20:22でも、イエスは「わたしが飲もうとしている杯」があると言われました。聖書では、「杯」は「神の裁き」を表しています(イザ51:17、エレミヤ25:15)。イエスが「飲もうとしている杯」は、「神の怒りの杯」すなわち「神の裁き」でした。本来、私たち人間がこの「杯」を飲まなければなりませんでした。すなわち、私たちが自分の罪に対する神の裁きを受けなければならなかったのです。イエスは、私たちが飲むべき「杯」を「飲もうとして」いたのです。すなわち、イエスが私たち人間の罪を身代わりに負って十字架にかかり、神の裁きを受けて死のうとされていたのです。十字架での死がイエスが「飲もうとしている杯」だったのです。
しかし、イエスにとっての「死ぬほどの悲しみ」「苦しみ」とは、単に、これから受ける肉体的苦痛や死に対するものではありませんでした。それは、全人類の罪を身代わりに負って十字架にかかり、呪われた者となり、最終的には、親愛なる父なる神にも見捨てられてしまうことでした。ですから、イエスは、十字架の上(第4の言葉)で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マコ15:34)と叫ばれたのです。Cf.詩22:1。それで、イエスは、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのです。
3.献身の祈り
「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 (39)。イエスは、全てを父なる神に明け渡し、父なる神の御心に従おうとされたのです。「一時間」(40)後、イエスは、ペテロたちのいる所に戻って来ました。すると、彼らは、「眠って」(40)しまっていました。イエスは、ペテロに「目をさまして、祈っていなさい」(41)と語りました。そして、イエスは、再び「二度目に離れて行き」(42)ました。そして、「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」(42)と祈られたのです。この祈りには、さらに御心を受け入れ、御心に従おうとする意志が感じられます。再びイエスが弟子たちのところに戻ってみると、彼らはまたも「眠って」(43)いました。そして、その後で、イエスは「もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされ」ました(44)。すなわち、「どうぞみこころのとおりをなさってください」と祈られたのでしょう。
イエスは、十字架で死ぬことが、父なる神の御心であることを知っていました。十字架の死を予告し、十字架に向かって歩んで来ました(マタ16:21、20:28、ヨハ12:27)。しかし、イエスは、十字架の前に、再び父なる神の御心を求め、確認されたのです。そして、祈りの中で、父なる神の御心を改めて確信したのです。
ルカ22:44には「汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。これは、死の危機などの極度のストレスによって引き起こされる現象だそうです。つまり、イエスは、極度の緊張状態で祈っておられたのです。それほど熱心に、父なる神の御心を求め、確信し、自らをささげたのです。
イエスは言いました。「見なさい。時が来ました。…立ちなさい。さあ、行くのです。」(45-46) イエスは「自分から十字架」へと向かわれたのです(Ⅰペテ2:24)。私たちもイエスのように、神の御心を求め、それがどのような苦難の道であって、御心の道を歩んでいきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師